才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

 否定的な気持ちは続いている。寒さや気圧みたいな、大きなもののせいにしてしまえばいいのだろうけど、それが上手に出来たならいいのだろうけど、わたしはそもそも優しい人間ではないのだろうし、否定的な気持ちや思想が自然な在り方のように思えてくる。何もしようと思えないし、出来ることなら何もせずずうっと眠っていたい。他人は嫌いだ。きっとそれは素直なわたしの気持ちなのだと思う。

 さみしいだけ。そうかもしれない。わたしは2年前に地元に帰ってから、ずっと仲間はずれだ。それは(わたしが勝手に)仲間はずれのような疎外感を感じている、という意味に限定されない。少し悲しいけれど。それまであった人付き合いは実際に消え失せたし、ここには友達はいない。インターネットはきっかけにはなっても、人間を相手にしているという感覚をくれるわけでもない。

 でも、そんなものなのかもしれない。仲間はずれになるような人付き合いなんて、そもそも嘘っぱちで、みんななんとなくそんな気分になってるだけで。みたいな、性格の悪さが滲み出た稚拙な仮説に頼っている。みんなひとりでいてほしい、という、わたしの害意。

 このところ、タイムラインを見ていて丁寧なやりとりにほどウソくささを感じる。誰にでも色をコくな、と言われる。わたしだって馴れ合いたいのに、間違ってるのはこちらの方で、向いてないんだろうね。SNSやめろといった指摘はこれまでに何度も受けている。やめられるものならやめてしまいたいけれど、無理だということもなんとなくわかってしまう。

 たいしてすきでもないものをすきと言えてしまうのはそんなに恰好悪いことですか。わたしの言葉が重みを失っていることなど気づいていないわけないじゃないですか。

 わたしは一人で完結した人間になりたい。他人なんていらない、一人でも楽しく生きていけるようになりたい。けれど、それが叶わぬ願望であることも承知している。わたしの娯楽は他者依存であるし、肥大した承認欲求とか自己顕示欲とかなんかそんなものが他人という装置を求める。なんとも情けないことだと思う。そも、金銭的にわたしは一生自立とは無縁なのだとおもう。

 わたしの敵はいつも、自身のどうしようもなさにある。他人以上に、わたしは自分のことが嫌いなのだとおもう。とうの昔に見捨てている。手綱を握る意志さえない。ダサい。そういった思考が同じ回路を辿って行き着く先の言葉が辛うじて出た、死にたい、なのに、どうしてこんなに安っぽいの?

 

 昔のブログを読み返していたらおんなじようなことをグダグダ書いていたので公開するか少しためらった。

今夜だけ間違いじゃないことにしてあげる

□イマジナリーエネミー

 生理周期かなんなのか、全員死んでくれ、みたいな思考に陥ることがままある。全員死んでくれ期の到来、それ自体は珍しいことではないけれど、このところ、他者と相対していると、すぐに怒りによる思考停止、並びに拒絶、破壊衝動、といった、負のイメージを感覚してしまう。お前のせいだよ、と言ってしまいたくなる。

 生身の人間を相手にすることはとても難しい。なるべくなら使いたくない言葉も相手に投げつけてしまうし、自分が傷つきやすくて恨みがましいことを忘れて、すすんで自分を卑下するような状況にもっていったりする。後悔の多い人付き合いばかりである。

 わたしには友達がいない、という気分によくなる。なりたいだけなのかもしれない。孤独であると設定することで、人間関係によってもたらされたネガティブな経験を自身から引きはがし、過去のものにしようとしている、のかもしれない。多くのネガティブ経験はわたしがもたらしたものであるにも関わらず、だ。

 他者に低く評価されることは悲しい。他者に拒絶されることは悲しい。他者にないがしろにされることは悲しい。悲しい気持ちに蓋をするために相手を嫌いになる。子供がすることかもしれない。喉元過ぎれば好きとか嫌いとかどうでもよくなる。ただ抜け殻のような無力感だけはしっかりと残っている。わたしは好かれていない。

 おおよそすべての他人が憎い。思い通りにならない他人が憎い。他人だらけの現実社会がとても嫌いだ。それはきっと、わたし自身の想像力の欠如から起こる。他人が自分とは違う生き物であること、自分とは違う生き物が自分とは違う考えをそれぞれ持って生活していること、わたしは25にもなってまだ理解できていないのだ。

 これから先もこのような思春期じみた心情吐露を幾度もすることになりそうな気がしている。そのたびにわたしは自身の不出来を嘆くのだと思う。抽象的な悩みほど解決のための手立てが見つかりにくいという話をどこかで聞いた。だけどボカさないといけないね。直接死ねって言えないからね。

 

□イマジナリーフレンド

 わたしは人間よりもモノが好きだ。モノが多いことがわたしの安心だし、満足である。しかしながら、わたしにとっての娯楽は他者依存のものばかりだ。誰かと会って言葉を交わすことは、おそらくだが好きだ。誰かについてわかったような気になることはとても気分がいい。しかしそこに人間はいるのだろうか。

 人間でさえ要素の集合のように思う。ゲシュタルト:全体に合計値以上の価値を見出せないし、さらに言えばわたしの対人評価は減点式だ。無価値、無意味と判断するや否や、好きという幻想が死滅していく。好きは幻想で、その死はゼロよりもややマイナス寄りだ。そんなわたしに友愛など惰性以外のないものでもない。自身の期待にすら応えられないために、また落ち込む。手に入らないものほど欲しくなる。

 他者はモノではない。他者はわたしのために存在しているのではない。当たり前のような顔をして、よくわからないことを話す。思い通りにならないだけで、それらはモノとさほど差がないように思う。わたしには他者がなにを感じているかを慮るほどの想像力はない。あてずっぽうであれこれやってみたものの、どうやら足りないようだ。

 だからこそ、できるだけ正確な言葉で教えてほしい。モノでないならそれを示してほしい。わたしとなんらかの関係性を持った誰かが何を感じて、何を考えているのか、わからないまま独り相撲で好きになったり嫌いになったりするのは、もう懲り懲りである。去っていった者たちは皆、口を揃えてこう言うのだ。「あいつメンヘラだからさ、」わたしは思う。きっと死ぬときひとりだろうな。

 


Awesome City Club – 今夜だけ間違いじゃないことにしてあげる (Music Video)

蝶々結び

バイト辞めたい、ずっと寝てたい

週4、4時間時給820円、月収換算5万弱の超絶楽勝のはずのバイトがしんどくなってしまった。たぶん、身体的な負荷とかは関係なくて、いままで少し飛ばしすぎてたというか、いい顔をしていた揺り返しなんだろうと思う。大学時代に講義で習った適応障害という言葉が浮かぶ。過剰適応で自滅するのはこれで一体何回目なんだろうか。とにかく、行きたくないのだ。なんでかな、レジくらいしかすることはないのにな。昨日はズル休みをしてしまいましたので、社会人としては失格です。

 

□好意と行為と恋

 きっかけはツイッターの話。すきなひとばかりフォローしていたら、すきなひとがたくさんできてしまった。こんなことを言っていいのかわからないけれど、恋人との通話よりもLINEよりも、楽しい時間がたくさんあって、それらは大抵すきなひとたちによるものなんです。それはめのちゃんだったり、阿久津だったり、りゅうくんだったり、鴨さんだったりなんだけど、楽しかったり、楽しそうだったり。昨日も僕のかわいこちゃんだった早大生との通話していて思い知らされた。なにもない僕の生活を彩ってくれる他者の幸福。素直に喜べるときばかりじゃないけど、それでも大切なものだと思っているよ。友達だって言えたらなぁ。まだそれだけの関係性は築けていないようにおもうから、すきなひとなの。

 すきなひとたちと恋人はあまりに違う場所にいて、なんていうか、これが僕の欲しかったものなのか疑わしい気持ちを抱いてしまう。

 恋人に対しては恋じゃなくて友愛の気持ちで付き合っていきたいと思っているから、(そもそも恋が必要だったらこのかわいこちゃんがすごい!2016のことでアタマがいっぱいの時に他の誰かと付き合ったりしない)それはそれでいいのだけど。

 僕よりも、相手が疲弊している、のを感じている。たぶん、そろそろ。だけど、その時が来たら泣くんだろな。

 

□冬

 大橋トリオとかSalyuとか、なんとなく他の季節にはなかなか聞かないような音楽を聞いている。それでも思い出にはなってくれなくて、なんだかこの街にはなにもないことをひたすら感じるだけみたいだ。

 からっぽでも、わたしはわたしよ、と言えるようになったけれど、喪失は怖い。かつてわたしだったはずのものが抜け落ちていくのは恐ろしいよ。

 


Aimer 『蝶々結び』

POSITIVE STRESS

□ POSITIVE STRESS

 後輩女子:山口と大森靖子ちゃんのTOKYO BALCK HOLEツアーファイナル@ZEPP東京にいきます。


大森靖子「POSITIVE STRESS」MusicClip

 新譜のPOSITIVE STRESS、いいです。

 火山ちゃんが「大森靖子は弾き語りの頃が一番よかったなんて言わずに今の大森靖子をみなよ、最強で最高だから」みたいなこと言ってて、グッときました。

 おれはもう、「二丁目の大森靖子になりたい」なんて厚かましくてとても言えなくなってしまったけど、あんな気持ちがもう一度思い出せたらな(そもそも二丁目はおれの居場所ではなくなってしまった)(そもそもそもそも楽器が出来ない)。

 ねえ、寒いですね。地下鉄の駅を出たら息が白くなって、まだ11月になったばかりなのにね、真冬みたい、とは後輩女子:山口の台詞。風邪ひきそうよ。

 

□魔法が使えないなら死にたい

 少し昔話をさせてね。

 2013年の4月、タワーレコード新宿店の邦楽フロアで「魔法が使えないなら死にたい」という文字を目にしたとき、おれはアタマん中がグシャってした。お前はわかってくれんのかよって、まだ信じられなくてイラだったけど、ちょっとうれしかった。キモイね。その言葉は、おれの鬱屈した生活のだいたいほとんどすべてだとおもった。で、ジャケットを見て唖然。「これ、勝訴じゃん、大丈夫かよ」それが大森靖子だった。

 そのころのおれは、タワレコのポップやキャッチコピー、さらには”ポスト○○!!”といった表現に辟易していて、音楽のことなんてそんなに好きじゃないかもしれないとすらおもってた。タワレコにいたのも、多分新宿でホモと遊ぶための待ち合わせまで、時間を潰していただけだと思う。でも視聴機のヘッドホンを耳につけて、そのアルバムを聴いたとき、愛してるよ、愛してるよ、愛してるよと繰り返す、予想していたよりも少ししゃがれた女の声に、これはもうダメだ、すきになるって確信した。そのCDは宝物になった。

 おれはそれまでアーティストのライブなんて数えるほどしか行ったことがなかったんだけど、トリプルファイヤーとのインストアライブ、新宿LOFTでの転校生、ベルハーとの3マンライブ、そんで、渋谷クアトロワンマンと、彼女のライブにはちょいちょい足を運んだ。ギターをかき鳴らして歌う彼女に圧倒されるのはなによりも気持ちがよかった。

 おれの2013年はこのアルバムと共にあったと思う。ホモのツイッターに歌詞を投稿してメンヘラ扱いされた。クリエイティブライティングの講義では、彼女の歌詞をもとにショートエッセイを書いた。@ユーチューブさんで彼女のライブ映像や動画をずっと見ていた。おれの部屋ではいつも大森靖子が流れていた。

 彼女の言う魔法とは、おれが考えてたようなファンタジーの世界の魔法じゃなくて、もっとずっとたしかな音楽の魔法のことだったけど、魔法が使えないなら死にたいと歌う彼女はもう、とっくに魔法使いだと思った。クソ陳腐な言葉でごめん。だっておれの生活を描き換えてしまったんだもの。


大森靖子「魔法が使えないなら」PV

 

□ファンレター

 こんなにすきだって、おれはただのファン、消費者でしかなくてね。だからCDも買うし、ライブもいくし、応援したいと思っているけれど、それでも1ファンの枠からはどうしても出ることが出来なくて、きっと靖子ちゃんがおれの声のことを「かわいい声ですね~」って言ってくれたことも、おれがそれで自分の気持ち悪いと思ってたホゲホゲ声を受け入れられたことも伝えられなくて、このままいつかよくわかんないままよくわかんなくなっちゃってこんな気持ちを忘れるのかなって思ったら、すごくさみしいよ。一度だけふぁぼってくれたあのツイートはおれの宝物です。

 もし何者かになれたら、大森靖子ちゃんの大ファンですって言いたかったな。それだけなんだけど。

NANIMONO

何が何者にもなれないだよバーーーーーーーーーーカ!!!!!!!!!!

ったりめーだろ!!!!!

 

 このブログを始めて最初に使った文字サイズ変更機能がこんな文章だ。うわあ。

 NANIMONO feat.米津玄師、キャッチーでいいですよね。映画はキャスティングが気に入らないので見ていません。二時間座っていられないので見ていません。原作を最後まで読んでいないので見ていません。見る予定もありません。

 

とか言ってる間に劇場公開が終わりかけています。


中田ヤスタカ 「NANIMONO (feat. 米津玄師)」MV FULL ver.

 

ウッ

 

 おいしいカレーがたべたい

 

バイバイバイト梅毒

 もうすぐ僕は25歳で、それはつまりもう性格も生き方も価値観も変えられないほど固定されてしまったということだとおもっているよ。だけどそれはようやく自分が自分じゃなくなる恐怖から解放されるということなのかもしれない。僕は誰かにこんな自分を変えてほしいと嘆きながら、自分が薄まることに常に怯えていたのかもしれないね。だけどこんなんになっちゃったよ。自己肯定感はあまりに希薄だ。

 アルバイト先でオーナーと二人でやる夜勤があまりにきつかったので、宝具:精神科通い手帳持ち(ランク:E)を行使して昼勤に移ったら邪悪なババアにいじめられた。世の中。パートのババアは偉そうで横柄でおせっかい焼きでしつこかった。○○さんがしんどいんでやめます、と言ったらエリアマネージャーと口喧嘩になった。そこでは感情的になってしまったので僕の負け。結局オーナーが気を使ってくれて夕勤の4時間だけ働くことになった。まだ一ヶ月なのに我儘を言いすぎている気がする。辞めるのとどちらが良かっただろう。まあバイトだし、という言い訳をいつも念頭に置いている。

 アルバイト先に小、中学校時代の同級生がきた、2人の子供を連れて。ケバいお姉さんだなあ、とおもっていたら、僕の名前を呼んで、あっ?え~~~ウケる~~!元気だった?え?地元に居んの?知らなかった~~!!と話しかけてくれた。警戒していたほど、その出来事は不快ではなく、また来てね、と言って見送った。彼女の上の子がずっと「ヤダ!!」と言っていて、「○○ちゃん、ねぇ、このお兄ちゃんね、ママの学校のおともだちなんだよ」と紹介されたのだけど、「ヤダーーー!!」と言われたのがとても可笑しかった。そっか、もうそんな大きい子がいるんだね。なんだか羨ましかった。

 僕は僕が恐れていたほど憎まれていなかった、ような気分になった。彼女はケバいお姉さんだったけれど、ちゃんと母親だった。それがどれだけ特別なことか、きっと彼女本人もしらないだろな。

 めのちゃんが仲良くしてくれている。(!)あんなに恋焦がれためのちゃんが、こんな僕と(たとえツイッターの付き合いでも)仲良くしてくれているのがうれしい。そんなめのちゃんが、「自分は”何者かになれなかった何か”になれたとおもっているよ」と言っていた。素敵だと思った。結局なにを言っても、どうしても、自分の価値を決めるのは自分なのだと思う。少しわかったことだけど、僕を何者かにしてくれたのはドラマチックな恋でも、映画みたいな逃避行でもなくて、ありふれたコンビニのバイトだった。それは客観的視点のふりをした主観でしかないのかもしれないよ。

 僕はフリーター、ニート見習い、実家暮らし。手帳持ちのメンヘラだけど、それで今は充分だとおもった。

 

 とか言って来月にはやめてたりしてな!

花束を君に

□加速

 いろいろなことが突然動き出した。前回の記事を書いてからの20日ほどで僕は少し変性したように思う。かわいい自分を取り戻さなくては、と思って、焦ってブログを書いている。かわいい自分なんて、いつの日もいたことなかったけど、なら、なにを探しているのか、わからないけど。とにかく、なにもしないことからうまれる焦燥感とは別の、違う焦りが僕を襲っている。どうしよう。処理が出来ない。間に合わない。ああ、これが、あの。

 (生活が善くなりますように、と受けたバイトの面接では週5の夜勤を命じられ、今からいつぺシャッと潰れてばっくれようか逆算しているし、せめて自分を好きになれますように、と願って買った黒のフォークギターも、すでに薄くホコリを纏っている。3カポ。)

□膨張

9/13、9/27

 この2回で、通院している精神科で心理検査を受けた。WAISの数唱・逆唱ができなくて、あ、音声系がダメなのかもしれない、と気づいてしまった。大学の講義でやったはずのロールシャッハでもなんか的外れなことばかり言っていたし、もしかして、アタマ、悪くなってるんじゃないか?nou ni tokeru asobi?

 (夢をみるのも自由、恋をするのも自由、この場合の自由とは、許可されている、よりも少しよわい意味で、推奨されているのとはもっと違う)

 病院の先生は、週5の夜勤について、勧めない、無理だなって思ったら早めに辞めること、と言っていた。身体だけは壊さないようにね、とも言っていたけれど、こんな身体に価値があるとも思えない。ただ、病気になると金がかかるということは知っている。金は親が出す。

 (ゲイセクシャルがペドフィルやネクロフィル、ズーフィルとおなじくらいいけないことで、社会がそれを認めなくても、僕はいくらでもアンダーグラウンドで行為をする、恋をする)

9/27

 宇多田ヒカルの新譜を買った。「花束を君に」が好きだったから。彼女のオリジナルアルバムを買うのは、実はこれが初めてです。田舎にはサブカルチャーどころかカルチャーがないよ、カルチャーセンターはあるのにな。だから僕は宇多田を食べる。御馳走だとおもう。世界中が雨の日も君の笑顔が僕の太陽だったよ、

□dreamless

9/16-22

 懲りてない、また東京へ行ってきた。大丈夫。もう過剰な期待はしていないから。自分の都合のためにまたたくさんの嘘をついて大人から金を巻き上げた。言葉が悪すぎる。でも本当。主な目的は大森靖子の生誕祭と、山口のフォロワーと会うこと。

 アコギを見た母親が激昂して口論になったので予定よりも2日早く家を出た。おかげで会えないはずの会いたかった人に会えた。宿も金銭面もどうにかなったのでいいや。

 山口のフォロワーはかわいかったけど、噛み合わない気持ちをずっと感じていた。

 雨のふる新宿で、どうする?という流れに何度もなったけれど、「君の名は。」も「聲の形」も見たかったけれど、2時間すわっている自信がなかったのでやめた。

 聲の形は大好きな漫画です。映画になったことで、文化人や良識人にぶった切りにされてしまっていることに思うところがないわけでもないけれど、うまく言葉に出来ないし、彼らの正しさは悲しさを孕んでいるから、何も言えない。

 いじめられっ子と被差別民族は少し似ていると思った。

9/22

 最終日、土砂降りの渋谷で、このかわいこちゃんがすごい!2016とデートをした。人目を避けて握った左手が、バカみたいに熱くて、これが恋だと思いました。だけど夢だと思いました。だから僕はきみとさよならしたのち、うっとりしながら線路に飛び込みたくなる衝動を抑えるのに必死でした。帰りたくなかったの。ありがとう、生身のファンタジア。ほかの人ともこうして会ったりするんでしょう。彼氏がいるのも知ってるよ。だけど嬉しかったから、また会いたいな。

□病毒

9/27

 恋人ができた。

□どうしたらあなたみたいになれるの

 もうだめだよ、もうムリ、て境界線がほかの人よりもずっと手前にあって、本当に無理になるまでにやめてしまう。それが自分に甘いとされる所以だ。だけど僕の無理ラインは、ほかの人と違う座標にある。

 なにかしようとするたび、やっぱり僕はポンコツだ、と酷く落ち込むハメになる。だから何もしなかったんだな、と、ようやっと思い出すことが出来た。この感覚を手に出来ただけでもう十分なので、僕を安全な場所に帰してください。ここはどうもおちつかないんです。

 おれは羨ましいよ。きみのことが羨ましい。ごめんね、きみのことなにもしらないけれど、なにもみていないけれど、きみのことがうらやましいんだ。

 愛しているよ、マイフレンド。いつか会ったならどんな話ができるかなぁ。

ニムロッド

□停滞

 とかなんとか言っておいて、前回の更新から少し時間が経ってしまった。やっぱり、毎日ブログを書くほど、僕の毎日はキラキラしてないんだな。うん、キラキラじゃなくてもいいんだけど、言うほどドロドロしているわけでもなくて、なんというか、グレー。灰色で味気ない、というほど無機質でもないのだけど。寝てるんだか起きてんだかの毎日。だけど友達が言う、「家族も友人もいない街での一人暮らししながらの労働」、想像しただけでずっとそっちのがグレーだ。てかもうブラックでいいんじゃないのそれ。つらそうだもの。君の毎日にはやく色が付いたらいいな。それができるのはきっと僕じゃない誰かなのだろうけど。

 冬に仕事を辞めてからプラプラし続けて、もうちょっと正確に言うとスヤスヤし続けて、もう九月…。だから、なんていうか、季節がまた変わって、いい加減ヤバいんじゃないかと思ってしまう。思えてよかった、まだ危機感が残っているということだ、安心。早計。医者はなにも言わないけれど、両親はそうもいかなくて、タウンワーク的なものをもって来たり、ハローワーク障碍者枠雇用に相談してみろなどと言って急かしてくるようになった。このままでは本当に社会性を喪失してしまう。その恐ろしさはわかってはいるのだけど、や、多分はっきりとはわかってないから動かないんだろうけど、なんだろうな。僕はきっとまた仕事を辞めてしまう。そんなふうに思ってるんだよ。

 この九ヶ月間、何をしていたっけ。数か月に一度、東京に出かけて、月に1、2回ほど病院へ出かけて、それ以外はほとんど眠ってような。あとはスマホのゲームとツイッターくらいかな。そのあまりの退廃的、浪費的生活に怖気がしたからこうしてたまにブログなんて書いてるわけなんだけど。でも本当に何をしていたのかいまいち思い出せないんです。夏は嫌いだから意図的にスキップしようとした節もあるけど。何者かになろうなんて気持ちもだいぶ長いこと忘れてて、形骸化した顕示欲だけ残ってたようにもおもう。そんな停滞を続けている。

□ぼくの短絡的な嫌悪、もしくは二分割思考

 これはインターネットのおはなしです。

 ああ、またひとを嫌いになった。僕は動物的なまでに盲信と軽蔑でひとを評する。すきなひとのことは過剰なまでに評価して、すきだ、すきだと祀り上げるし、きらいになった人間のことは常に何か欠陥はないかと悪いところを探して、さらには想像で貶したりする。びょうきじゃん?境界性人格障害のそれとよく似ているでしょう。きっと僕はそれとは別のものだけど。対象のことをLOVE/HATEで分けたがるのは、短絡的で下品な行為?習慣?だとおもう。なにより頭が悪そうだ。のでやめたい。やめよう。まだ感情のステージにおいての出来事ならいいのだけど、善/悪や美/醜についても白/黒つけたがると、他人との摩擦は増えるし、なにより自分が生きづらいんだよな。世の中には「どちらでもない」グレーゾーンや、「どちらかといえば~~」みたいな、相対的なものの方が多いってことを、経験を伴った実感として知るべきなんだと思う。僕はね。

 このような思考の作業を、他者を嫌いになるたびに一通り、ルーティンワークのようにする羽目になる。反省はあっても活かされないこともあるのだ。おれに恋が難しいってのは、つまりはこういった極端な対人評価からも伺えるよなあ。すきとかきらいとか、そういうのどうでもよくなるくらい一緒に居られたら、あるいは違うのかもしれない。友愛から恋になれたらいいな、うん。

 物事に対する価値観が明確に分化されていることは一つの美しさだとおもうけれど、同時にそれはとても苦しいことなのかもしれない。ってこれ、自分が他人を貶していることを正当化しているだけのようにも思えるな。僕はセコイ人間ですわ、ほんとね。自分と似ているものに対して批判が甘くなってしまうのは少しずるいかな。そもそも批評家気取りなのが笑えるよね。ごめんね。ちょっと身の程知らずだよね。うん。

 同じことが成功/失敗にも言えるようにおもう。すぐあれは失敗だったと決めつけたりするけれど、本当はそれほど致命的ではないのかもしれないよね、なんて希望的観測過ぎるかもしれないけど、そうでもないと自分を保てない夜もあるよな、知らんよな。

□再稼働

 家から歩いて5分ほどのところにコンビニができるそうだ。新聞の折り込みチラシにスタッフ募集と書いてあった。またとないチャンスだと思う。25歳でフリーターでも全然いいよな、ニートよりましさ。そういって自分を甘やかしたり励ましたりしてみる。明日、電話をかけてみよう。生活がよくなりますように。


People In The Box「ニムロッド」

ユキカ

□おれはすきなひとを凸レンズにしてその向こう側にイデアを見てるの

 このところまめにブログを更新できていて嬉しい。たとえ一日のアクセス数が3でも、おれは自分のためにすら、なにかをするということができない人間だから、こうして文章を書けるということが嬉しいです。自己満足だっていいです。けれど、特に言いたいことがあるわけでもないし、日常の中にキラキラを見出すことはまだできないでいる、ので、ブログを書くにはもうネタがない、かもしれない。

 

 今日の小見出し、「おれはすきなひとを凸レンズにしてその向こう側にイデアを見てるの」。いつかここでも話題にした、

9x9lantern.hatenablog.com

この、「すきなひとたくさんいたほうがいいよ」論をおれに教えてくれた人が割と最近口にしていた言葉なんだけど、すげえ気に入ったのでパクりました。言葉が悪い。引用させていただいています。イデアかあ、しばらくそんなもの、考えもしなかったけど、理想形のなにかがすきなひとを通して見えるのなら、それが既定のカタチの恋とか愛じゃなくてもいいのかもしれないな、と思いました。ちなみに先述の彼はこの考え方のせいで独りよがりだとか言われてるぽい。かなしい。

 いつもおれがバカにしながらもすげえ仲良くしてるメンヘラデブ大学生がいるんすけど、先日もそいつの恋バナ()聞きながらア~~愚か~~とか思って、こいつの恋は呪いみたいだな、なんて考えてた。執着と自己愛にまみれているのに、打算的で恐ろしい。本人にこんなこというとまたキレそうだから言わないけど、全然いいものだとは思えないんだな。だけどなんていうか、すきなひとの一挙一動で一喜一憂するの、少し羨ましいな。でもおれはすきなひとの画像をSimejiの背景に設定したり絶対しないぞ!!

 おれは自分のこと、愛とか恋とかでシアワセになれるタイプの人間ではないと思っていたけど、よく考えたらまっとうな恋なんてしたことないかもしれないな。一生に一度の恋とか、真実の愛とか、嘘っぽくてチープだと思っていたけど、それだって本当は美しさなんだとおもう。すきなひとストックなんてつくっていたからよくわからなくなってしまっていたのかもしれない。それだって承知の上でやってたことなのだけど。ひとりの人を好きになって、恋で傷つくよりずっといいと思ってた。でも今のおれは傷ついてみたい。傷ついて泣くほど誰かを好きになってみたいんです。なんかやるせないね。

 恋ってどうしたらできるのだろう。おれは自己愛性パーソナリティ障害は恋なんてできないって言ったこともあるし、メンヘラの恋は依存か妄想とも言ったことがある。正直、そのうち何割かは当たっていると思う。少女漫画とかその延長線上のBL漫画なんかにも、ちゃんとときめいたりせつなくなったりできるのに、生身の人間を相手にするとどうしても性的な視線が先行してしまう。人間性の問題かな。おれはたぶん幾分か動物的なんだと思う。の割には本能に逆行してるよな、笑える。きっと、その動物的な、性欲の対象として相手を見る、ということをやめなくちゃ、恋なんてできないんだろうな、って少しわかった。

 そこまで考えて、結局は「この町じゃ」と思ってしまう。出会いもないし、あったとしてもおれは肉欲の対象としてしか自分を売り込めない(安いオカマだから)。そういえば、冬に中野在住の休日課長似のお兄さんに付き合ってみる?と言われて即答できなかったのは、遠距離恋愛に自信が持てなかったのもあったけど、自分のセールスポイントが安価であることしかわからないからだったんだな、今更だけど。だっておれはあまりにも自己物件なんだもの。精神障害ヒキニートに恋なんて贅沢品だよな、と気が付いてしまった。働いたら恋ができるかな?むむむ。

 他人の恋をいくつも見てきたけど、わからないことばっかりだ。しかもおれはそれらに甲乙をつけたがる節があるんだよな。ただしさやまちがい、善悪や美醜で判断して、気に入らないと割と平気で侮蔑したりして。そういうとこもポンコツなんだろうけど。せめて友達の恋くらいは素直に応援できたらいいのにな。


吉澤嘉代子「ユキカ」MUSIC VIDEO

 ラブソングが好きだ。たとえそれがおれらホモのためにつくられたものじゃなくても、誰かを想ってやさしくなりたいよ。きみのその恋がいつか叶いますように。

 夏の終わりにこんな記事を書いてしまって、おれもすっかりセンチメントにあてられてるな、なんて思った。それから、セミの死骸すら今年はあまり見ていないことに気がついた。

綺麗

□自立支援適用外ヒキニート

 今日は町役場の福祉保健課から電話をもらって、精神障碍者手帳の再申請に行った。前回の申請では書類が足りなくて、結局手続きが完了しないまま放置してしまったので診断書の期限も切れていたし、すこし面倒なことになった。おれは保険証がなく父親の扶養に入っているのだけど、父親の年収が無駄に多いせいで、自立支援医療の適用外となる旨を説明された。一割負担にならないなら、自立支援を申請するメリットはあまりないようにも思うが、正直おれは制度とかもろもろ、よくわかっていない。

 精神障害者手帳を申請することについて、父親はひどく反対していた。狭い農村のような町内のことだ、すぐに知れ渡ることだろう。おれは小さい頃から奇行が目立つ子供で、近所では悪い意味で有名人である。そんなおれのことだ、「あの子おかしいおかしいと思ってたけど、やっぱり精神だって」なんてことも言われかねない。父親はそういった世間体を気にしていたのだろう。どうでもいいけど腹立たしい話ではある。

 今日、町役場で対応してくれた人は、以前母親と仕事で付き合いのあった保健師さんだった。おれのことを「ともちゃん」と呼び、親しげに話し、今後の就職についても親身になってくれた。障碍者枠での採用があり、町内でも募集があることなどを教えていただいた。最後に、大変だと思うけど、いろいろな制度があるからね、上手に利用して生きてこうね、と声をかけられた。なんていうか、優しかった。おれは外界に対して過剰にビビってた自分を知覚した。ありがとうございます、と言って帰った。

 おれはどうしようもなくダメ人間なのに、ダメ人間の中ではマシな方、みたいな話が精神障碍者手帳の等級によって知らされるのだと思う。

pha.hateblo.jp

東京で生きていたら、ちゃんとダメ人間になれただろうか。

 

□おしゃれに生きてみたかったナ

 まずはじめに、おれにとってのおしゃれとはサブカルチャーアンダーグラウンド、クリエイティブ、とかなんかそんな感じ。デザフェスとか最高。カタカナばっかで意味が通りにくいけど、本人もわかって使ってないので問題はない。ある。

 トイちゃんの話をまた出してしまって悪いけど、いや、悪いことをいうわけじゃないから別に悪くないんだけど、けどトイちゃんはこんなブログがあることを知らないし、知らんところで名前を出してることはやっぱり悪いことなのかなぁ。話が逸れた。トイちゃんはいまとてもクリエイティブな方面にいる。クリエイティブホモのお友達も多い。素敵なことだ。正直言って滅茶苦茶羨ましい。ここでおれがうらやんでいるのは、突き詰めてしまえば素敵な友達がいる、ということかもしれない。

 何かを作る、ということは素敵なことだとおもう。ちなみにおれは語彙がないので素敵という言葉を多用するが、そのうえで素敵という言葉がとても好きなので、あまり困ってはいない。また話が逸れた。りゅうくんみたいに音楽を作るひとも素敵だし、トイちゃんみたいに絵を描くひとも素敵だし、タケノヤさんみたいに写真を撮るひともすごく素敵だとおもう。おれには何ができるだろうか、と考えてみたけれど、何者にもなれない呪いを自身に課しているおれは、たぶん何をやってもどこかへはいけないんだろうな、ってやる前から言い訳してる。筋金入りだ。

 東京にいた頃はおしゃれっぽくてちょっとダメなお友達がそれなりにいた。今でも時々ラインをしているけれど、だらけたやりとりのなかでは、彼女らが今何をしているのかさっぱりわからない。ちゃんと暮らしているのだろうか。自称フォトグラファーのおじさんとか、すごいおもしろかったけど、生存力だけで生きてる感じがした。そんなことを口走るおれの生存力はどんなもんかね。10年経っても生きていけるのかしら。


吉澤嘉代子「綺麗」MUSIC VIDEO

 なんか作ってみたいなあ、時間だけはあるんだけど。技術も知識もないんだよなぁ。

セプテンバーさん

□サマーナイト農村

 8月が終わる。というだけでどうしてこうも感傷的にさせられるのかね。夏休みが終わるからなんだろうけど、だけどよく考えたらおれの通っていた高校は8月中にはもう二学期が始まっていたし、そもそも二学期が始まっても学校には行ったり行かなかったりだったからあまり関係のないような気もする。夏なんて大嫌いだから早く終わってほしい、のに、なんていうか、さみしいよね。ここにはもともと誰もいないのに。

 コンビニすらも遠いような農村で精神障害ヒキニートかましてるうちにおれの身体は老けていく。この手もいつかはしわしわになるの。でもそんなことありふれていて、全然ホントにこれっぽっちもロマンチックじゃないし、ただただどうしようもなくかなしい。永遠に続くと思ってた10代が終わったときに、おれは気づくべきだったんだな、生きてるだけで手遅れになり続けてることに。うん、24歳の夏休みが終わる。けど明日も明後日もおれは家から出ないんだろう。ここはとても安全だ。


茶太 夏影 -Airness-

 

□過敏になりたい

 昔はよく、自分が生きているその瞬間がいやでいやでたまらなくなることがあったけど、歳のせいか、薬のせいか、だいぶ何も考えないで生きている時間が増えた。ボーーーっとしていたら1日は終わる、いともたやすく。1週間、1か月、そして季節がまた変わろうとしている。これでいいのか、いいわけないけど。ただどんどん頭は鈍くなっていくし、社会からもはぐれていっているのを感じる。

 昨日は電車に乗るのが怖かった。や、電車に乗ってからだな。なんとなく、人の視線で呼吸が制限されているような気がした。息がつまる。頭のポンコツっぷりは増していくのに、こういう脆さは残っているのが少しくやしい。遠くへ行きたい。

 こうしてブログを書いていて、もどかしい思いをするたびに思い出すことがある。高校の頃受けた、現代文の時間、俳句の授業。おれは日常の中に落ちてるキラキラを掬いとることができない。不満ばかり口にして生きてきた弊害なのだろう。他人の日常がなにもスペシャルであるわけではないのではないか。おれがうつくしさをみつけられないだけで、本当は意外とあるものなのかもしれない、ネタだってそう。なんて、チャンイモやりゅうくんのブログを読んでいて思った。

 うん、おれはりゅうくんのブログが好きだ。直接の面識がないどころか、言葉を交わしたことさえもないのだけど。それこそ、ブログにスターを贈りあうだけの仲なので、おれは彼の名前を出すことすら本当は許されていないのだろうけど。端的に言って知り合い以下である。でも、だからこそニュートラルな目線で彼のブログを読むことができるし、そのうえで彼の語りがとても好きだ。さらに言うなら、今日彼がアップロードしていた歌を聴いて、めちゃくちゃこころを動かされた。つーか焦った。このところ毎日言っているけれど、おれの何者にもなれなさっぷりは筋金入りだとさえ思ったね。

 そんなわけでりゅうくんのことをすごく応援したくなったので、きみのことをすきなニートがどっかの農村に生きてることを笑ってやってほしい。見てくれてたらいいな。

 

□私の夢は

 おれはこうして何者でもない自分を肯定するために、あるいは、あわよくばなんかの拍子に何者かになれちゃったりしないかなんて、淡い甘い期待を抱きながらブログなんか書いちゃってるわけなんだけど。ツイッター、あれはだめだね。本当の気持ちなんて言えやしない、ただだらしのないやりとりがあるだけだ。開き直ってパス美の名前でツイッターしてるけど、だれもおれのドロドロの中身なんか興味ないんだろうな?っておれも同じだ。そういうの求めるから失敗したんじゃないのかなぁ?@自戒

 過去、曲もかけないくせに作詞をして遊んでいた時期があった。塗り絵みたいだな。黒歴史クリーナーに消させたからもう見れないんだけど、なんつーか小山田壮平とか後半は大森靖子の丸パクみたいな歌詞だったなぁ。楽しかったので、いつかまたやりたいな。


大森靖子「マジックミラー」MusicClip

 

アコギが欲しい(そこからか)