才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

夏至

□2015年6月21日の日記

 今年もちゃんと6月21日がきて、やっぱり「今日はあの日か……」「ご冥福をお祈りします」「今日はアイツに会いに行きます」なんてツイートするひとはいるもんだって確認して、それで全部。勝手にやってろただお前らのそれ全部オナニーだからなっておもいつつやっぱり死人が羨ましいし自分は今日も死ねやしないし別に死にたくもないし人間なんてどうせ死んじゃうんだもんなとか思いながらけどどうせ死ぬなら早い方がいいなとボケ老人を見て想う日々。年金は払いたくないしバイトも仕事もしたくないけどどうせどこにいても死にたくなるんだったらもはや東京にもそれ以外にもなんの価値もないしア~~プリキュアになりて~~~なんてクソ無意味な現実逃避を繰り返すだけ、こんなの死んでるのとそう変わらないような気もするしかといって死ぬようなロマンチックもセンチメントもどこにもなくてただ田圃の世話をする老人を窓から見てるだけ。彼らのことなんて最初から嫌いだったって言ってるじゃんでも関係ないからどうでもいいです。僕がシンガーソングライターだったら芦花公園の歌を作ってた絶対性格悪い?ホモは相変わらず自意識過剰で歪んだ人間ばかりでチョ~~面白いです、ブーメランとか百も承知だし。すてきな歌を聴く、面白い漫画を読む、そんな瞬間のためだけに生きてみたいけどかといってそんなのもうどこにも残ってない、選択肢として僕が選べるのはみっともないものばかりで夢も理想もかなわないから重荷になるだけで自分は特別みたいなそんなゴミみたいなプライドは今すぐ捨てろ。可愛い自分にエサをやりたいんだったら精神障碍者ぶるのは辞めなきゃ顔面がどうとかじゃなく僕は僕が一番かわいい友達より恋人より両親より妹より僕は僕が一番かわいいのに社会にとってはただの使い道のない歯車だからいらなくなったら次のゴミの日に捨てられてしまいます今日が夏至ならもうすぐ6月が終わって大嫌いな季節がきますまた季節がかわってゆきます言い訳以外の努力をできないで生きてこうなんてあまいよ鬱はあまえ鬱はあまえUTSUHAAMAEだからもうちょっと頑張りなさいよじゃあ死んでしまおうかしかしそこにはなんのドラマチックもセンチメントも残ってはいないのでした。こんなのは望んでいなかった、はい、おしまい

 

□2016年6月16日の日記

また6月がきたよ。2016年の6月を生きてるよ。みんな生きてるよ。たぶん変わらずに生きてるよ。僕は君のことなんてこれっぽっちも知らないけれど、聞きたいことがたくさんあるよ。そっちの様子はどうだい?そこからは何が見えているの?
なんて、こんなの、なんの足しにもならないノスタルジィだってわかってる。それでも餌がないと飢えて死ぬ。ごめんなさい。
死ぬことについて考えれば、相変わらず。わたしは死にたいんだ、多分。死にたいと思ってしまうよ。どうしたって。今の生活の中ではつまらないことしか起こらない。過去にも未来にも期待できないんだもの。もう本当にどうにかなりそう。あれ、もしかしたら、もうとっくにどうにかなってるのかも?しれないな。だってもうずいぶんと死にたいだとか、つまらないだとか、そんなことしか口に出していないような気がするもの。ねえ、きみはつまらないということは死んでしまうに足る理由だとおもう?

3文節以上の文章を考えると疲れる。身体は変わらず重く、心はどうもうまくいかない。世界観を上からROM焼きしてくれるような恋がしたい。そうじゃなくてももっとまともに。まともに、なりたかった。まともに、恋だってしてみたかった。すきなひとストックが意味を為さなくなってきた。すきでいても意味がないから。救ってくれないから。救って、救ってほしい。救ってほしいよ。んあああああああああ。

こんな気持ちを抱えたままあとどのくらいここでこんなことがしていられるだろう。いつまでもこんなところでこんなことをしていたいわけじゃない。どうも家に金がないらしい。どうもわたしのせいらしい。そんなはずはない、スケープゴートにされている気がする。ニートひとり養って精神科へ通わせることが共働きの両親にとってどれほど負担になっているのか。死ぬほどどうでもいい。

 

□2014年6月1日の日記

六月になると思いだすことがあるんです。
京王線芦花公園駅で飛び込み自殺をしたホモの方のこと。
うん、たしか六月のことでした。

僕とその人は面識がありません。どんな人だったのかも知りません。ただ、その人の知人らや、無関係の有象無象達がこぞって騒ぎ立てているのを見ていただけです。
その日、僕は人が死んだというのに、流れ続けるタイムラインを見ながら(なんてドラマチックなんだろう)などと不謹慎なことを考えていました。愚かな僕は、今でもその人に憧れることがあります。顔も名前も知らない死んだホモのことを、まだ羨んでいるのです。
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いつか死ぬことだけは平等だという慰めの言葉がありますが、なら、死は平等でしょうか。
僕もあれから何度か本気で死ぬことを考えたりしましたが、どうしてもそんな風になれなくて、変わらず生きています。最近ではもう、大して死にたくもなくなっちゃったりして、未来のことなんか考えちゃったりして、ダサくなったな、って感じです。

あくまで僕の恣意的な解釈ですが、「彼」は成功しました。それはまるで映画のように。あの日は鮮烈でした。人生の最期を劇的に装飾する、という意味において、「彼」はこのうえなく成功したと僕は捉えています。不謹慎でしょうか。僕は、あんな風には、きっとなれないから。

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/*僕が死んだら、誰か泣いてくれるかな。*/

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死は私たちに単純に美しさを与えてくれるわけではありませんでした。死にゆくときにさえ、人間には失敗と成功があるのだということを私はまざまざと見せつけられました。成功か失敗で言えば、僕は失敗し続けているのです。失敗して、だらだらと醜態を晒し続けています。でも。たとえだらしなくてダサい日々だとしても、今生きている僕は幸せなのでしょう。だって、この人生は映画にも漫画にもなれないんだから。たとえスーサイドという行為が自分の全てと引き換えに一度だけ使える魔法だとしても、僕はクソダサくて、なんのドラマチックさもない人生を生きていきたいと願うようになりました。これでいいんですよね?いつかの自分に、それでいいと言ってほしい。

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そう考えると、やっぱり、「死にたい」と「死んだ」の間にはとてつもなく大きな隔たりがあるんですよね。
私たちが十代の頃に恋い焦がれた死とは、いったいなんだったのか。僕にとってはそれがドラマチックであり、現状からの逃避であったように、彼女にとっては耽美の象徴であり、今のあの子にとってはそれが自分に対する唯一の救いに見えているわけで。けど実際死なんてありふれてるしつまんないよなんて言う僕もいて。
今の僕が死の中に見ているものは、不変性・永遠・安定です。人は死んだらどうなるんでしょうね。芦花公園駅の「彼」は今どこにいるのでしょう。こうやって僕ら残された人間は自分たちの好きなように悼んだり、懐かしんだりするわけですが、それはある意味蹂躪に近い行為のように感じます。僕のこれは、批評という、なかでも最低なそれです。けど、届かない。彼はもうここにはいないのだから、どんな言葉も届かないのではないでしょうか。
そうなってしまうと、もう誰も彼を傷つけることはできないし、イライラさせることもないわけです。傷つかないことは羨ましいけれど、羨んではいけないことなのでしょうね。
人が死ぬということは、悲しいことなのだから。
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すげえ陳腐でなんの重みもないことをいいますけど、人生にはたぶん正解も間違いもなくて、スーサイドがひとつの選択としてあったときにそれを選ぶということは賞賛に値するほどの勇敢な行為かもしれません。勇敢?違うわ、きっとそれしか選べなかったのでしょう。それがどれほど悲しいことか、どれほど苦しいことか。よくがんばったねって、だけどそんなふうには頑張らなくてもよかったんだよって。

けど僕は今まで死ねずに生きてきて、死ぬこと以外をいつも選ぶことが許されていて。今もそれなりにやっているのですから、たぶん僕にとってはこれでいいのでしょう。と、いうよりも、人が自分以外の誰かになれない以上、今までの自分の選択がどうあれ、これでよかったと言い聞かせて生きていくしかないのではないかと思います。
たとえば、もしも今が幸せだったら、過去もぜんぶ今こここの瞬間までに至る過程だったとして受け止められるんですかね。そこまで幸福を感じられることがこれから先の人生で僕に起こりうるのか甚だ疑問ですが、なにかを期待して息を続けようと思いました。生きててよかったって、いつか言いたい絶対言いたい(深夜高速みたいですね)

 

□2017年6月21日の日記

 芦花公園駅で自ら命を絶ったある同性愛者の青年について、わたしは毎年こんな風に彼の死をレイプし続けている。会ったこともない、もう会えない、ここにいない彼に対して。彼はわたしにとって、どうしようもないほど死の象徴だから。

 今年は、ただ祈ろうと思います。どうか安らかに、

□躊躇

 傷つかないために自身を例外化する、慣用句でいうところの棚に上げる。敵対するモノが大きくなるにつれて主語が肥大する。結果、自分VS社会という構図に陥りがちである。自身がマジョリティだとはどうしても思えないが故の被害妄想じみた思考だと思う。特定の誰かと喧嘩するよりいくらかマシかもしれないけれど。わたしは何なんだろうか。類型論、カテゴライズでしか自身を規定できないことが少し怖い。

 傷つきたくない/馬鹿にされたくない/蔑ろにされたくない/識られたくない/否定されたくない/飽きられたくない、怖い。

 わたしはとても小さくなった、臆病者なのはわかっていたけれど、自分が酷く傷ついていることに気がつかないでいた。可哀想だとは思わないけれど、わたしはわたしが想っているよりもずっとチャチで雑魚くて恨みがましい人間だ。正直に言ってしまえば、今、弱っている。参ってしまっている。誰も悪くないんだ。これは誰かが僕という個人めがけて投げた石ではないんだ。でも痛いものは痛い。自分は自由である、逃げれる、選べる、と言い聞かせている、少しだけ楽になる。

 

□申告

 統合失調だとか感情障害だとか人格障害だとか発達障害だとか、自身の欠陥をオープンにすれば、セルフハンディキャッピングをすれば楽になると思っていた、甘かった。それを甘えだと自分で切り捨てなければ、とても人前に出せたものではなかったから、自分のことをダサいと言った。要は自虐的な自分に悲しくなってしまったわけだ。誰もそんなことをしても誉めてくれるはずがないし、大目に見てくれることもなかったわけで、わたしは自分の内臓をさらけ出して、それだけ。人並みにやれない自分が恥ずかしい。恥ずかしいということでまた少し傷ついているのだと思う。ならばどうする、人並みというものを忘れよう、25歳男性の平均月収を/正常な発達を/結婚して家庭を作る幸福像を/週末の飲み会を/積み上げた苦労を、僕が持ちえなかった何もかも。視界にはいれば傷ついてしまうから。ダメな自分をダメだと思ってしまうから。

 

□昂揚

 自分の攻撃性はいつも他人に向かう。他者を傷つけることにはいつだって無頓着なのに、僕はとっても傷ついていました、なんていうのは卑怯なことだと理解しているつもりだ。僕は僕の手綱を握れない、けれど、いつまでもそれではいけない。もう自分の快・不快に他人を巻き込みたくないと過去にも言ったはずで。他人とは必要な最低限のつながり以外は絶ってしまおう、とさえ思うのに、一過性の気持ちでまたラインしてしまう。自身が社会の中にいないのだと思うほど、人恋しさは増すばかり。だからどうか、僕などに傷つけられたりしないでほしい、僕の言葉には重さがないから、気にするほどの価値もないから。笑って忘れてなんて、ああ、そんなの、いくらなんでも身勝手が過ぎる。

 

□宗教

 大学時代の友人女子から着信があった。彼女の話は毎週末、昔の知人から宗教の勧誘の電話がかかってくるというものだった。宗教は怖いものだから、もう電話をとるのはやめなさいと言ったけれど、わたしは宗教の怖さなんて知らない。

 さみしさを理由に、あなたには帰属する(居場所)ゲイコミュニティがあるから羨ましい、と彼女は言ったけど、それこそ、ゲイコミュニティと新興宗教はすこし似ていると思った。わたしはそんなもの信じたくないし、宗教に傾倒するなら神道がイイな、と思った。(仏教系の大学出身だけど)

ゴミ

□生活にあふれるゴミテキストについて

 ゴミみたいな文章を読んで、ゴミみたいな感情でアタマを満たす、要らない。人間が一生に読める文字の数は決まっているらしいよ、みたいな雑談の種ぐらいにしかならないような知識にはっとさせられる、こんなどうでもいい他人のどうでもいい近況報告を読んでいる場合ではない。エスエヌエッス、本当にこわいのはどうでもいいもので自分が塗りつぶされてしまうこと。メメモリちゃんやめのくるまがタイムラインにいた頃はまだ自分の中に取り込めるおもしろさっぽいものがあった。出会い系アプリのために作った今のアカウントは本当にゴミアカウントの様相を呈している。ゴミテキストはゴミのように無価値だし、たまにくっせぇゴミもあるからイヤだ。当のわたしはほとんどスマホのゲームの話しかしてない、それこそゴミ。10連ダメだった~~~とかゆってる場合ではない。たまにこうして我に帰るとエスエヌエッスもスマホゲームも酷く空虚に感じられる、ゴミ人間のゴミ時間の使い方、あるいは人生をドブに捨てる・ハウトゥ。たった今もゴミテキストによって脳がグシャっとしているところです。ラインの意味のない、ただ続けることだけを目的としただらしのないやりとりとか、出会い系アプリのブリーディングありがとうございますよかったらなかよくしてくださいみたいな未来のない挨拶とかそういうのも全部ゴミテキスト。インターネットのなかにいるただで読めるおもしろい文章はごくわずかで、そのなかでもわたしをなぐさめてくれるようなものは本当に希少であると思いました。めのくるまや寿司ボーイや大森靖子ちゃんのブログを楽しみに待っていたころは幸せでした、みんなそんなにヒマじゃあないね。もうゴミみたいな文章を視界に入れたくないよ、でもつながっているつもりになりたいの。4年か3年くらい前、わたしが東京でセックス三昧していた頃にとりくん?ていう愛知のツイッタラーに、精神おかしくなったりストレスで実生活に影響が出るくらいだったらツイッターやめればいい、と言い放った時の答え「東京みたいにホモとすぐに会える距離にいる人間には絶対わからないけど、お金がなくても、遠くにいても、誰かとつながっている実感がないとホモでさえいられないんだよ」今のわたしはまんまこれタスケテ

 

□生活を阻害するゴミプライドとわたし

 レイン某プライドとは関係ない。歪んだ自尊心によって行動が著しく制限されること。誰かに可哀想だねとか頑張ってるんだねとか言われたくない。特に自分よりも下だと認識している人間からは、絶対に。それなりに付き合いの長い友達でも、仲良くしてても、こいつのこういうとこ本当に愚かだなとか馬鹿だなとかダサいなとか考えてて、そういう面ばかり見える人間のことは下に見てしまう、どうしたって。メンデブ2号ちゃんは大学辞めたんだってさ。それ自体はね、どうだっていいんだけど、なんでそんなに自分の容姿に自信があるの?って言いたくなるようなツイートが増えたね。またツーチャンネルでなまえを見る日も遠くないような気がしてるよ。静大教育学部のかまってちゃんはまた休学したんだって、だって君は口だけ達者なんだもの、自分がうまくやれないのを周りの人間が馬鹿だからって言ってごまかしてるんだもの、しかもすぐゲームで思考停止するでしょう?みたいなことをね、考えているわけですよ。で、はた、と気がつくわけ。気がついてしまうわけ。誰かにとっての僕もきっと同じものであると。あのひとからはわたしもこんな風にみえていたのかもしれないな。まあね、たとえであって、誰でもいいんだけど。どうでもいいいんだけど。もうこれ以上誰にも馬鹿にされたくないし、見下されたくない。ついでに言うとバカだと思ってしまうような人間相手の関係のためにコストを支払いたくないんですわ。とかいう歪んだ自尊心だけはあるけど、僕はゴミです。こうやってまた社会から乖離する。ねぇ、類友って知ってる?たとえおんなしようなひととしか触れ合えなくても僕にとってはきむらちゃんだけが本当で、きむらちゃんと阿久津以外のホモのことはどっかで見下してる、だってホモってキモいじゃん。ホモがキモいものであるという認識はたぶんどうしたって治癒できない根底の歪み、だから僕は自分を認めてあげるなんてこれからもできはしないんだよ。こんなふうに互いが互いを見下すもんだから他人とまともな関係が築けないとかもはや言葉にもしたくないくらいわかりきっててゴミだわ。お前だって見下してるだろうって言いたいわ。ごめんなんでもない、被害妄想だよね、結局わたしの受け取り方に問題があるよね、って、なに言ったってどうしようもなくゴミっぷりが露呈するだけじゃん。ダサ

 

□生活と乖離するゴミブレインのゆくえ

 

 ひきこもりみたいな生活を続けるうちに、エモさもノスタルジアもセンチメントもなくした。だって、アメリカンフットボールを聞いているのに脳が音だとしか認識しないんだもの。そんなのサブカルかぶれ人間としては終わってるでしょう。もうおしまいなんだわ。一番ちゃんとした写真家の知人が君はまともだよと言ってくれたけどニートなだけで社会からすればまともじゃないしただのおもしろい選択肢を選べなくなってしまっただけですよと返して、ゾッとした、本当にその通りじゃないのよ。いやだいやだいやだゴミだわたしは。ゴミになんかなりたくなかった。ゴミになんかなりたくなかった!!!!!妹が教えてくれた若手バンドのうたが全然おもしろくない。全然興味をそそられない、もっと言えばわたしにやさしくないコンテンツは全部ゴミ。わたしのさみしさに寄り添ってくれないコンテンツは全部ゴミ!!!!!繊細チンピラになってコンテンツ気取りの他人の発言に逐一噛みつきたい衝動に駆られるけどこれって喪女とかその辺の発想だわ。ヤッバ。考えることをやめて、感じることと何かを作ることに注力すればSEISHINが安定するとのアドバイスを受けたので、有機生命としての手触りのあるエクスペリエンスを求めているのですが、わたしに出来ることって実際のところほとんど何もない。生活はできそう?⇒それはまだ♪CD買っても漫画を買っても前みたいに満たされないのはどうしてなんだろな。景色も余白も失くしてしまったから。どうか知らない素晴らしさを見せてください。Help me!

 

□生ゴミ

 久しぶりにブログを書いたけど自身のゴミっぷりを認識させられるだけでした。本当は、某中学生日記みたいな太ったホモが出てくるショートムービーをぼろくそにいいたかったけど、ホントは貶してやりたかったけど。いいなって、羨ましいなって、わたしもこんな風になりたかった、って思っちゃったし、すこしだけ、心が動かされちゃったから、わたしの負け。

 

 もうわかってあげない、と切り取り線で区切りあったはずのホモを2丁目で見かけた。数日後、着信があった。その後はLINE、グループチャットと、あまり無視を続けるのもキツイものがあったので返事をしてしまった。相手の態度があまりにもなにもなかったように、以前のままだったので拍子抜けしてしまった。「パス美無理だわ」って言ったやんけ、と思ったが、自身のネガティブスキル:一過性A⁺とおそろいのものを見つけたので、何もなかったことにした。彼の加虐嗜好:Aはかわりなかったが、同じようにかわいいままだったのでもうグズグズ考えるのはやめた。淡いオレンジの髪が羨ましかった。

 巻き込んでしまった阿久津(だから個人名を出すな)とちゃんめのには悪いことをしたな、と思ったが、謝るのもわざとらしいのでこの場を借りて謝罪するに留める。ごめんなさい。

 改めて、地元から離れられてよかったね、これから起きるいろいろなことが、君にとって価値あるものとなりますように。お酒はほどほどに、身体は大事にしてね。

□恩知らず

 それにしても、僕はどうしてこうも簡単に感謝の気持ちを失くしてしまえるのでしょうか。っつーのはある程度他人からの目線を意識した建前の自己批判でしかなくて、本心を言ってしまえばその時々、場面場面での僕自身の考えがあるからんなのたりめーだ。「ありがとう」も「愛してるよ」も「死んでくれ」も一過性でしかないのだ。好きなうちに好きって言っておこうって思っただけなのにそれは軽薄さ以外の何物でもなかった。けれど、そこまで見抜いた人間をちゃんめの以外に知らない。(そう考えるとやはりめのくるまはすごい)あれだけ優しくしてやったのに、世話してやったのに、と、大抵の人間は僕のことを「恩知らず」と呼ぶ。だけどさ、そんな恩着せがましいこと言っちゃって大丈夫なの?あつかましいよお前ら。

 まあ、それでも僕だって後悔で眠れないような夜がある。一夜のことだけどね。ごめんね、ありがとう、あの時は嬉しかったよ、本当なんだ、忘れないでね、また会えたときは笑って話せたらいいな、って、思うこともあるんだよ。

 

□あんなにだいすきだったものが仮想的として目に映るとき

 そもそも、彼ら()が僕に優しかったこと自体が一過性だってことに気づいてないんじゃなかろうか。だってずっと優しい阿久津のことはずっと好きだし、ずっと素敵なたいしょーさんはディズニーおじさんになっても素敵だよ。恋をなくしてもあの子のことは応援してるよ、口に出すとなんか違うもんになっちゃうよね。

 まあでも、優しさを喪う理由もなんとなくわかっちゃいるんだよな。僕がその優しさに甘えすぎて愛想尽かされたり、優しくされて勝手に好きになって欲張って全部なくしたりね、自分勝手な脳ミソは酷くダサいね。尽きぬ優しさを求めているとしたら。

 今、ホモという群体を憎んでみたりしている僕だって、メタ的な視点で見ればそれっぽい社会風刺を振りかざして仮想的とドスコイしてる痛いヤツみたいだ。紆余曲折を経て「ホモキモい」に至ってしまったけれど、2012年には「ホモでいてもいいんだって思えたから、ホモのひとたちと出会えてよかったです」みたいな日記を書いてたんだよな。受け入れてもらえた、てのも、拒絶された、てのも、短絡的かもしれないけど、全部思い込みでしかないんすわ。思い込みと一過性の感情でいつまで生きられるかな。

 主語がデカいと話が見えにくくなるからやめておこうな。でもやっぱホモはアレなやつ多いと思うよ。服に広がるゲボの染み。

> ケモノで盛り上がるほどケモナーでもないし、アイドルナイトでキャーキャーできるほどアイドルにも惹かれないし、音ゲーやるくらいなら楽器に手出すし、エロ筋肉ナイトでハッスルできるほどガチムチでもないし、レインボーにプライドも何も感じてないけど自分以外の楽しそうな奴は全員殺す。

絶対生きづらいでしょそんな人。

 

余計なお世話じゃボケ。

□メルトウイルス

 

 ゴールデンウィークなんてまるで関係ないかと思えば、厄介なことに嫌いな父親がずっと家にいたので想像以上にストレスだった。

 父親は発達のバランスが悪い。父親の姉は父親よりもさらに酷いアスペルガーだ。到底許容できないタイミングで空気の読めないことを言う。できれば関わりたくないのだが、近頃父方の祖母が死にかけているのでよく顔を合わせる。先日は(町の授産施設に)行かないの?と言われた。

 家にこもっていると、外の世界のことが分からなくなる。断片的に入ってくる情報はあまり気持ちのいいものではないことが多い。ので、余計に社会に対する恐怖や嫌悪を増長させる。外に出たくない。家に人を入れたくない。にもかかわらず、家の中だけでも不快な出来事は起きてしまう。ずっと眠っていたい。

 頭の中に要らないデータが入ってくるたび身体が拒絶反応を起こす。咀嚼するのに少し時間がかかる。自分が病気なのかわからないけれど、少しも普通じゃないし、全然大丈夫じゃないと思う。時間が経つのを待っているのに、それにつれて自分が古くなることがとても怖い。

 

□トラッシュ&クラッシュ

 

 このところ、ホモが気持ち悪くて仕方がない。当然、僕自身もホモであるので、すべての言葉はブーメランのように自分に返ってくるわけであるが、それでも吐き出さずにはいられない。服を汚すゲボだ。

 其処に至るきっかけとして、毎年のことだがレインボーほにゃららが原因として挙げられる。カネの臭いとポリティカルな暴力性で気持ち悪い。縁日感覚で行ってるツイッターアイドル部の皆さんも気持ち悪い。ホモでよかったって何。多様性だの愛だの。排斥されろ。なんのプライドもないだろ。ああいうのがショーケース的なステレオタイプとして取り上げられるのは気持ち悪いの通り越して愉快ですよね。

 僕はきっとたいていのホモよりも精神がアレ組で、精神がアレなことによって大きく人格が歪んでいるので、ホモでさえなければ、と思ったことは少ない方だと予想する。だからこそ、健全な発達の上で、自分自身のアイデンティティ形成にホモであることが大きく影響しているタイプのホモ(主語)ほど、ホモであることでなにか許しを得たがっているようで受け付けない。妥協や甘えがホモだからしょうがないか、といった思考から透けて見える(穿ちすぎ)。そんなの、精神がアレな人間となにも変わらないはずなのにな。そのくせいたるところで精神がアレ組を軽んじる傾向が順列に表れていて気持ち悪い。ああいうのが普通の人間ですけど?みたいな顔して生きてるのが気持ち悪いよ〜〜。

 きっとホモにしか見えないホモの気持ち悪さがあって、知ってしまったが故の毒だ。このひとは違うってどっかで信じてたひともホモコミュニティのローカルルールに織り込まれてすっかりつまんないホモになって出てきた。

 これは内なるホモフォビアなどではない、ヘイトスピーチだ。自己嫌悪に他人を巻き込むな、というならお門違いだ。ホモであることを認めろというのなら、ホモを嫌う精神性も認めろ。ホモキモい。

 虹の旗を燃やせ。

□the beast

 いい具合に日本語を忘れた。会話の相手は母親を除けばカウンセラーか精神科医だ。知っていたはずの言葉が出てこないので、黙る。言いたいことがなんとなく喉元にあるのに、言葉にならないもどかしさ。こんなことは少し久しぶりのように思う。

 自分と向き合ってもいいことなんてないとおもった。救いは忘却だけ、こんな気持ちは早く忘れてしまおう。

□エラーメッセージ

 なにも言えない。なにを言っても一過性のものだとまた知ってしまった。あとで恥ずかしくなるようなことを記録として残しておくことに今更ながらの抵抗が生まれた。僕は誇りみたいにおもっていたものもなくした。それでもこんな文章を書いているのは、早くこんな気持ちを過去にしてしまいたいから。僕が移ろい易いのであれば、この無力感も、気怠さも、宛先の見つからない恨み言もきっと過ぎ去ってくれるはず。いなくなってほしいのはいつだって自分だ。その攻撃性が外に向かないよう責任の所在を自身の中に探している。逃げ出したい、けど、たぶんこの身体はどこへも行けないとおもう。

 なんとなく怠くて動けないのは、春の陽気にあてられたせいか、せいしん薬が少し効きすぎてるだけだから。大丈夫。

 

□pink

 桜が咲いている時期だけが春なのだと思う。ずっと昔に好きだったひとに、何の気なしに、今の彼氏はどんなひとなのと聞いた。

 昔好きだった、とかさ、そのときは性欲だったかもしれないけどねぇ。また会いたいなって思うよ。だから、だからさ、

 

□最近のカップ麺はうまい

 さくらがさいている。ことしはこのはながちるまで、だれかといっしょにながめることもないだろう。

 

 僕がいいな、と感じるような才能がある人は自己表現をする。当たり前の話だけど、それは表現するから僕まで届く、見えている。なら、僕も表現を、ああ、と気づく。表現するためのスキルがないだけではない。僕には、表現するような自己はないのだ。

 (遅いよ、気がつくのが)

 

 高校生だった頃からずっと思っていたことがある。僕が精神の不全や発達のバランスの不揃いさ含め、人間の出来損ないであるとするなら、きっとゲイですらいられてはない。最初から同じステージに立っていないのだ。だから恋も生活も、自分には難しい。

 (でもそれってセルフハンディキャッピングじゃないの)

 

 3月末、恋人に別れを切り出した。2人の間に恋愛感情はもうないけれど、もう少し一緒にいようかということになった。これからは恋人をもっと頼ろうと思った。利用するのではなく、きちんと頼れたならいい。いつかパートナーと呼べるようになりたい。

 (身の程知らずな欲望ばかりだね)

 

 言い訳くらいさせてくれ。