才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

□ドロドロ

 後出しじゃんけんと一過性の心因反応も外的刺激がなければさして問題じゃない。嫌いな人間なんて腐るほどいるけど視界に脳内に入ってこなければさして問題じゃない。だから大抵は大丈夫なんでしゅ。被害妄想と関係妄想から統合失調と診断されているようです。炭酸リチウムを減薬したらだいぶ楽になった。楽に、というかperformanceがそこそこ回復した感じ。思うように手足が動く、意識が動かせる。だらしのないやりとりは控えている。きっとまた毒になってしまうから。父と離れて暮らすために独り暮らしをすることになった。なかなかおもうようにはならない。東京ではない。あなたがいればここは東京よ、あなたとふたりなら、ずっと。でも、誰もいない。

□わたし美

 友達の彼氏がめちゃめちゃかわいい、とか思ってたら虚言癖がひどすぎて別れたとかいってて笑う。かわいいかわいい染タンとはまた話せるようになったのでとても嬉しいです。狂喜乱舞。幾度目かの恋だった京王多摩川駅の彼を久しぶりに見かけたので嬉しい、お互い元気で、とはいかなかったけれど、好きだよ。きみとすごせたらって何度もおもったもの。ODAYAKAがいちばんだと思う。酒とかリアルとかナイトとか2丁目とかなくても好きなひととひとりとひとりでいれればいいと思う、本当ならば。でもそんなにシンプルには生きられなくてゴミみたいだ、と思いながら毒だか薬だかわからない液体を飲み干してる。これが恋かしら。でも選べるものは何もない。後輩女子山口が話を聞いてくれるのにすごい助けられてる。枠の外にいる人間のほうが安心できる。ホモは怖い。

□再魔女

 かぴちゃんやすしぼの文章を読みながら悩む、僕は何がしたくてこんな文章を書いているんですかね。馴れ合い?手づくりの承認?内臓ひけらかしても得られるものなんてほとんどない、ふたつかみっつのはてなスターくらい。かぴちゃんやすしぼになりたいわけではない。わたしはわたしになりたい。僕は僕に成田市。でもあけすけさとか尻軽さとか情報セキュリティの低さくらいしかウリがないのよね、正直なところ。そんなんで文章書こうってのはやっぱ甘いのか。やめてしまいたいな。なにがしたいんだ僕は。

 

☞らじブログ書けらじ☞

クソダサい、何かを否定しないと、嫌わないとブログのひとつも書けないの、かなしい、もう、やめてしまいたい、頭がおかしいから薬を飲んでいるのに薬をのんでも頭はおかしいし救いなんて期待するんじゃなかったなあ、もういいや

 

ねえなんできみはぼくのことすきじゃないの

□allways i need you

 精神薬の効き目がすごい、全然よくない、眠いしだるいし何もしようと思えないけど、代わりに誰かを攻撃しようだとか、悪く言われてる気がするだとか、そういうのもいくらかマシ。でもこれが普通とかまともとは到底思えないのでさっさと減薬したい。あれ、なんでこんなこと書いてんじゃろな、恋とかそういうキラキラしてるっぽいものの話をしたかったのになおかしいな、恋とかないですけどね、全然、そういうの、なんか遠いしステージが違う話に思えるし、恋で世界が変わったりしないし愛じゃ救われないことも知ってしまったんだよわたしは。

しいて言うなら金をくれ、できるだけたくさん。幸せモードの安っぽい説教はもう聞きたくないわ。まあわたしに説教してくる奇特な人間も少ないんですけどね、昔はそれなりに居ましたけどね、みんな無責任なのでどっかいっちゃいましたしそれでいいとおもいます、かわりにわたしも同じように無責任に説教していくんで、若いメンヘラとかに、

ああ、ヒマだなあ、ひとりってこんなもんか

悲しくてやりきれない

※何が建設的コンテンツとしてのブログだ、くたばれここはゲボの掃き溜めエチケット袋じゃ※

 

□ヴぁ

いろいろ死んだ、恋とか愛とか仏壇とか未来とかすきとかまともとかきみとのおもいでとか、いろいろ、もう、もう片っ端から切断してまわってはみたけれど、これネットでいつか見た、セルフネグレクトだわ、だれも、だれも頼れない状況を自ら作り出してはいないか?いないか、でも大丈夫です、僕は、僕にはカウンセラーがいますので、カウンセラーには隔週で会うし、薬は常備6種類、炭酸リチウム、ポリ……てなワケですな、It's a Trueヤンス、これオーケンリスペクトなわけ、わかる?香菜、頭をよくしてあげよう、ほ~~ら、コンサータ!!!!!

□ンぎ

とか言ってたら精神科の閉鎖病棟にぶち込まれて一週間でリリースされた、まあもともと一週間だけねって話だったんですけど、主治医はわたしに社会的ないきものでいてほしいらしいのでもう少し頑張ります、なにを?なにをがんばるの?ねえ、どうしたらわたし大丈夫になれるの?ってこれ阿久津に聞きましたね、でもわたしなんかよりたぶん阿久津の方がずっとつらいことも笑い話みたいに語りながら生きてきたとおもうのでなんか気恥ずかしい、めのちゃんにわたしは底なし沼に見える水たまり、水たまりだけど濁っているから底は見えない、底は見えないけど靴さえも浸らない、といわれてそのとおりだと思い続けて生きている、ドボンだとおもったらビチャだったワケ、だからわたしはだいじょうぶです、大丈夫というほかないし、実際たぶん大したことないんだろうな、って大したことないとしてもぜんっぜん、う~~~ん、

□あピャ

 少しだけ真面目に話ス。一週間のきらきら精神病棟体験を終えて娑婆に戻ってきて、携帯の電源を入れたら一通のメールでフラれていた。う~~ん、フラレガイガール(酸欠少女)言うほど好きでもなかった彼氏にでもフラれてしまうと「あたしをフってんじゃないよバカ」って感じだし、クソ執着してる自分に気づいたし東京行く理由をまた失くしたな~~って雑感。だれだ高円寺カプセルホテルとか言ったやつ、それから大好きなそめたんにも上手に話しかけられなくなっていて、もうリプライも飛ばせないんだろうなあ、すごく大好きだったのに、恋も愛も死んだってのは、そういうことです。あのこにはほかに大切なひとがいてくれるからたぶん大丈夫です。きっと世の中のひとらにはぼくよりも大切なひとがいてくれるから大丈夫です。僕は人間じゃないんです~~。

 かわいそかわいそぶってるように見える?だとしたら2008年からなにも変われてないってことよね、こんな人生に価値があるともおもえね~~んだけどナ、皆さん頑張ってるみたいで何よりッス、どんどん普通から乖離する、こんなはずでは?もうNANIMONOかになりたいなんてたいそうなことは言わないから、どうかわたしを置いていかないでください。お願い~~シ~~ンデレラ~~。イマサラ、だけど、おれは別にとしおのこともちんこちゃんのことも嫌いじゃないよ。むしろ好きだったよ。あのときちゃんと言えたらよかったな。悪かったよ。

 ツイッターはまだ怖くて見れない。はてなブログは馴れ合いばっかになっちゃったなって思ってしまう。どこにいてもうまくやれない自分を知覚するだけ。此処じゃないどこかを探してる。

 

♡最近の楽しみは佐野ラジオのブログ♡

☞らじブログ書けらじ☞

生きのばし

精神科の受診を終え、帰宅するまでの電車の中でこの文章を書いている。

 

精神科医の前で泣いてしまった。

優しくされて泣くなんて安っぽいからイヤなのに。

最近どうもおかしい気がする。

カウンセラーにまた2週間後にちゃんと来てくださいね、と念を押された。

 

死にたいわけじゃない

猫になりたい

□愛知の恋 part.2

 昨日は、7月6日はだいすきな男の子の誕生日だった。いつか話した愛知の子だよ。とてもかわいくていい子なのでだいすきなのだけど、今は、その子には恋人がいて、そういえば僕にも恋人がいて、しあわせそうなので、僕はそれでいいとおもう。恋人になりたいわけじゃないもの。でもすきだよってずっとゆってる。「すきなひとにすきだとつたえるのはしあわせ」ってきむらちゅゎんがいっていたよ。ほんとうにそのとおりなんだよ。だいすき。

 きみの飼い猫になりたい。

 

 でもこれは夢みたいなもので、いつか醒めるよ。どうか醒めてしまっても、きみのしあわせを願えますように。ず~~っとしあわせなきみでいてね。

大人と子供 (初夏のテーマ)

 どうにもうまくない。変わらず、気持ちのほうが穏やかでない。

 昨日の記事は、ごめんなさい。嫌な思いをするひともいると思う。でも、僕は過去の自分が無責任にも放りだした言葉と決着を付けたくて、もうそんなことは終わらせたくて、昔の日記から引っ張ってきたんだ。現実がどうにもうまくいかなくても、惨めだって、死にたくないよ。今の僕には生きていてほしい人がたくさんいるんだ。

 本当はむしろ、気持ちが穏やかでないときに筆記療法的な癒しを求めて日記を書いているのだけど、よくないのかな。助けてほしい気持ちを、いっぱいいっぱいな心情を、自分の中でそれらしいロジックにあてはめようとしているのだけど、これが頭でっかちと言われてしまう理由なのかもしれないな。無理矢理に意味とか原因だとか、探さない方がいいのかもしれない。こんな思考弄りよりも、紙粘土とかで工作でもしていた方がいいのかもな。

 はて、僕はなんなんだろう。労働が出来ないほど神経の調子は悪いみたいだけど、なにかできることはないのかな。こんな日々にも意味はあるのかな。そんなものないよって言いきってしまった方が楽なんだろうな。あったらいいな。自分で、作れたらいいな。それがいちばん素敵なことだと思うんだ。

 すごく不安だよ。生きているあいだはずっと落ち着かないような気さえするんだ。もう普通とかまともだとか、そんな風には生きられないだろうけど、まともじゃない人生を受け入れられたなら、少しはやりようもあるんじゃないかな。それは残っている数少ない希望みたいだけど、でも悲しい気持ちはまだここにいるんだ。あきらめることとうけいれることはたぶん違うから。まだしばらくは動けない気がしているよ。

 

 たぶんいつものように一瞬で消えてしまう気持ちだろうけど、大好きだよ。

夏至

□2015年6月21日の日記

 今年もちゃんと6月21日がきて、やっぱり「今日はあの日か……」「ご冥福をお祈りします」「今日はアイツに会いに行きます」なんてツイートするひとはいるもんだって確認して、それで全部。勝手にやってろただお前らのそれ全部オナニーだからなっておもいつつやっぱり死人が羨ましいし自分は今日も死ねやしないし別に死にたくもないし人間なんてどうせ死んじゃうんだもんなとか思いながらけどどうせ死ぬなら早い方がいいなとボケ老人を見て想う日々。年金は払いたくないしバイトも仕事もしたくないけどどうせどこにいても死にたくなるんだったらもはや東京にもそれ以外にもなんの価値もないしア~~プリキュアになりて~~~なんてクソ無意味な現実逃避を繰り返すだけ、こんなの死んでるのとそう変わらないような気もするしかといって死ぬようなロマンチックもセンチメントもどこにもなくてただ田圃の世話をする老人を窓から見てるだけ。彼らのことなんて最初から嫌いだったって言ってるじゃんでも関係ないからどうでもいいです。僕がシンガーソングライターだったら芦花公園の歌を作ってた絶対性格悪い?ホモは相変わらず自意識過剰で歪んだ人間ばかりでチョ~~面白いです、ブーメランとか百も承知だし。すてきな歌を聴く、面白い漫画を読む、そんな瞬間のためだけに生きてみたいけどかといってそんなのもうどこにも残ってない、選択肢として僕が選べるのはみっともないものばかりで夢も理想もかなわないから重荷になるだけで自分は特別みたいなそんなゴミみたいなプライドは今すぐ捨てろ。可愛い自分にエサをやりたいんだったら精神障碍者ぶるのは辞めなきゃ顔面がどうとかじゃなく僕は僕が一番かわいい友達より恋人より両親より妹より僕は僕が一番かわいいのに社会にとってはただの使い道のない歯車だからいらなくなったら次のゴミの日に捨てられてしまいます今日が夏至ならもうすぐ6月が終わって大嫌いな季節がきますまた季節がかわってゆきます言い訳以外の努力をできないで生きてこうなんてあまいよ鬱はあまえ鬱はあまえUTSUHAAMAEだからもうちょっと頑張りなさいよじゃあ死んでしまおうかしかしそこにはなんのドラマチックもセンチメントも残ってはいないのでした。こんなのは望んでいなかった、はい、おしまい

 

□2016年6月16日の日記

また6月がきたよ。2016年の6月を生きてるよ。みんな生きてるよ。たぶん変わらずに生きてるよ。僕は君のことなんてこれっぽっちも知らないけれど、聞きたいことがたくさんあるよ。そっちの様子はどうだい?そこからは何が見えているの?
なんて、こんなの、なんの足しにもならないノスタルジィだってわかってる。それでも餌がないと飢えて死ぬ。ごめんなさい。
死ぬことについて考えれば、相変わらず。わたしは死にたいんだ、多分。死にたいと思ってしまうよ。どうしたって。今の生活の中ではつまらないことしか起こらない。過去にも未来にも期待できないんだもの。もう本当にどうにかなりそう。あれ、もしかしたら、もうとっくにどうにかなってるのかも?しれないな。だってもうずいぶんと死にたいだとか、つまらないだとか、そんなことしか口に出していないような気がするもの。ねえ、きみはつまらないということは死んでしまうに足る理由だとおもう?

3文節以上の文章を考えると疲れる。身体は変わらず重く、心はどうもうまくいかない。世界観を上からROM焼きしてくれるような恋がしたい。そうじゃなくてももっとまともに。まともに、なりたかった。まともに、恋だってしてみたかった。すきなひとストックが意味を為さなくなってきた。すきでいても意味がないから。救ってくれないから。救って、救ってほしい。救ってほしいよ。んあああああああああ。

こんな気持ちを抱えたままあとどのくらいここでこんなことがしていられるだろう。いつまでもこんなところでこんなことをしていたいわけじゃない。どうも家に金がないらしい。どうもわたしのせいらしい。そんなはずはない、スケープゴートにされている気がする。ニートひとり養って精神科へ通わせることが共働きの両親にとってどれほど負担になっているのか。死ぬほどどうでもいい。

 

□2014年6月1日の日記

六月になると思いだすことがあるんです。
京王線芦花公園駅で飛び込み自殺をしたホモの方のこと。
うん、たしか六月のことでした。

僕とその人は面識がありません。どんな人だったのかも知りません。ただ、その人の知人らや、無関係の有象無象達がこぞって騒ぎ立てているのを見ていただけです。
その日、僕は人が死んだというのに、流れ続けるタイムラインを見ながら(なんてドラマチックなんだろう)などと不謹慎なことを考えていました。愚かな僕は、今でもその人に憧れることがあります。顔も名前も知らない死んだホモのことを、まだ羨んでいるのです。
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いつか死ぬことだけは平等だという慰めの言葉がありますが、なら、死は平等でしょうか。
僕もあれから何度か本気で死ぬことを考えたりしましたが、どうしてもそんな風になれなくて、変わらず生きています。最近ではもう、大して死にたくもなくなっちゃったりして、未来のことなんか考えちゃったりして、ダサくなったな、って感じです。

あくまで僕の恣意的な解釈ですが、「彼」は成功しました。それはまるで映画のように。あの日は鮮烈でした。人生の最期を劇的に装飾する、という意味において、「彼」はこのうえなく成功したと僕は捉えています。不謹慎でしょうか。僕は、あんな風には、きっとなれないから。

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/*僕が死んだら、誰か泣いてくれるかな。*/

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死は私たちに単純に美しさを与えてくれるわけではありませんでした。死にゆくときにさえ、人間には失敗と成功があるのだということを私はまざまざと見せつけられました。成功か失敗で言えば、僕は失敗し続けているのです。失敗して、だらだらと醜態を晒し続けています。でも。たとえだらしなくてダサい日々だとしても、今生きている僕は幸せなのでしょう。だって、この人生は映画にも漫画にもなれないんだから。たとえスーサイドという行為が自分の全てと引き換えに一度だけ使える魔法だとしても、僕はクソダサくて、なんのドラマチックさもない人生を生きていきたいと願うようになりました。これでいいんですよね?いつかの自分に、それでいいと言ってほしい。

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そう考えると、やっぱり、「死にたい」と「死んだ」の間にはとてつもなく大きな隔たりがあるんですよね。
私たちが十代の頃に恋い焦がれた死とは、いったいなんだったのか。僕にとってはそれがドラマチックであり、現状からの逃避であったように、彼女にとっては耽美の象徴であり、今のあの子にとってはそれが自分に対する唯一の救いに見えているわけで。けど実際死なんてありふれてるしつまんないよなんて言う僕もいて。
今の僕が死の中に見ているものは、不変性・永遠・安定です。人は死んだらどうなるんでしょうね。芦花公園駅の「彼」は今どこにいるのでしょう。こうやって僕ら残された人間は自分たちの好きなように悼んだり、懐かしんだりするわけですが、それはある意味蹂躪に近い行為のように感じます。僕のこれは、批評という、なかでも最低なそれです。けど、届かない。彼はもうここにはいないのだから、どんな言葉も届かないのではないでしょうか。
そうなってしまうと、もう誰も彼を傷つけることはできないし、イライラさせることもないわけです。傷つかないことは羨ましいけれど、羨んではいけないことなのでしょうね。
人が死ぬということは、悲しいことなのだから。
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すげえ陳腐でなんの重みもないことをいいますけど、人生にはたぶん正解も間違いもなくて、スーサイドがひとつの選択としてあったときにそれを選ぶということは賞賛に値するほどの勇敢な行為かもしれません。勇敢?違うわ、きっとそれしか選べなかったのでしょう。それがどれほど悲しいことか、どれほど苦しいことか。よくがんばったねって、だけどそんなふうには頑張らなくてもよかったんだよって。

けど僕は今まで死ねずに生きてきて、死ぬこと以外をいつも選ぶことが許されていて。今もそれなりにやっているのですから、たぶん僕にとってはこれでいいのでしょう。と、いうよりも、人が自分以外の誰かになれない以上、今までの自分の選択がどうあれ、これでよかったと言い聞かせて生きていくしかないのではないかと思います。
たとえば、もしも今が幸せだったら、過去もぜんぶ今こここの瞬間までに至る過程だったとして受け止められるんですかね。そこまで幸福を感じられることがこれから先の人生で僕に起こりうるのか甚だ疑問ですが、なにかを期待して息を続けようと思いました。生きててよかったって、いつか言いたい絶対言いたい(深夜高速みたいですね)

 

□2017年6月21日の日記

 芦花公園駅で自ら命を絶ったある同性愛者の青年について、わたしは毎年こんな風に彼の死をレイプし続けている。会ったこともない、もう会えない、ここにいない彼に対して。彼はわたしにとって、どうしようもないほど死の象徴だから。

 今年は、ただ祈ろうと思います。どうか安らかに、