才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

ニムロッド

□停滞

 とかなんとか言っておいて、前回の更新から少し時間が経ってしまった。やっぱり、毎日ブログを書くほど、僕の毎日はキラキラしてないんだな。うん、キラキラじゃなくてもいいんだけど、言うほどドロドロしているわけでもなくて、なんというか、グレー。灰色で味気ない、というほど無機質でもないのだけど。寝てるんだか起きてんだかの毎日。だけど友達が言う、「家族も友人もいない街での一人暮らししながらの労働」、想像しただけでずっとそっちのがグレーだ。てかもうブラックでいいんじゃないのそれ。つらそうだもの。君の毎日にはやく色が付いたらいいな。それができるのはきっと僕じゃない誰かなのだろうけど。

 冬に仕事を辞めてからプラプラし続けて、もうちょっと正確に言うとスヤスヤし続けて、もう九月…。だから、なんていうか、季節がまた変わって、いい加減ヤバいんじゃないかと思ってしまう。思えてよかった、まだ危機感が残っているということだ、安心。早計。医者はなにも言わないけれど、両親はそうもいかなくて、タウンワーク的なものをもって来たり、ハローワーク障碍者枠雇用に相談してみろなどと言って急かしてくるようになった。このままでは本当に社会性を喪失してしまう。その恐ろしさはわかってはいるのだけど、や、多分はっきりとはわかってないから動かないんだろうけど、なんだろうな。僕はきっとまた仕事を辞めてしまう。そんなふうに思ってるんだよ。

 この九ヶ月間、何をしていたっけ。数か月に一度、東京に出かけて、月に1、2回ほど病院へ出かけて、それ以外はほとんど眠ってような。あとはスマホのゲームとツイッターくらいかな。そのあまりの退廃的、浪費的生活に怖気がしたからこうしてたまにブログなんて書いてるわけなんだけど。でも本当に何をしていたのかいまいち思い出せないんです。夏は嫌いだから意図的にスキップしようとした節もあるけど。何者かになろうなんて気持ちもだいぶ長いこと忘れてて、形骸化した顕示欲だけ残ってたようにもおもう。そんな停滞を続けている。

□ぼくの短絡的な嫌悪、もしくは二分割思考

 これはインターネットのおはなしです。

 ああ、またひとを嫌いになった。僕は動物的なまでに盲信と軽蔑でひとを評する。すきなひとのことは過剰なまでに評価して、すきだ、すきだと祀り上げるし、きらいになった人間のことは常に何か欠陥はないかと悪いところを探して、さらには想像で貶したりする。びょうきじゃん?境界性人格障害のそれとよく似ているでしょう。きっと僕はそれとは別のものだけど。対象のことをLOVE/HATEで分けたがるのは、短絡的で下品な行為?習慣?だとおもう。なにより頭が悪そうだ。のでやめたい。やめよう。まだ感情のステージにおいての出来事ならいいのだけど、善/悪や美/醜についても白/黒つけたがると、他人との摩擦は増えるし、なにより自分が生きづらいんだよな。世の中には「どちらでもない」グレーゾーンや、「どちらかといえば~~」みたいな、相対的なものの方が多いってことを、経験を伴った実感として知るべきなんだと思う。僕はね。

 このような思考の作業を、他者を嫌いになるたびに一通り、ルーティンワークのようにする羽目になる。反省はあっても活かされないこともあるのだ。おれに恋が難しいってのは、つまりはこういった極端な対人評価からも伺えるよなあ。すきとかきらいとか、そういうのどうでもよくなるくらい一緒に居られたら、あるいは違うのかもしれない。友愛から恋になれたらいいな、うん。

 物事に対する価値観が明確に分化されていることは一つの美しさだとおもうけれど、同時にそれはとても苦しいことなのかもしれない。ってこれ、自分が他人を貶していることを正当化しているだけのようにも思えるな。僕はセコイ人間ですわ、ほんとね。自分と似ているものに対して批判が甘くなってしまうのは少しずるいかな。そもそも批評家気取りなのが笑えるよね。ごめんね。ちょっと身の程知らずだよね。うん。

 同じことが成功/失敗にも言えるようにおもう。すぐあれは失敗だったと決めつけたりするけれど、本当はそれほど致命的ではないのかもしれないよね、なんて希望的観測過ぎるかもしれないけど、そうでもないと自分を保てない夜もあるよな、知らんよな。

□再稼働

 家から歩いて5分ほどのところにコンビニができるそうだ。新聞の折り込みチラシにスタッフ募集と書いてあった。またとないチャンスだと思う。25歳でフリーターでも全然いいよな、ニートよりましさ。そういって自分を甘やかしたり励ましたりしてみる。明日、電話をかけてみよう。生活がよくなりますように。


People In The Box「ニムロッド」