才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

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□さみしいよ、マザーファッカー

 

怪物:

 腐った感情を、凍った経験を、ひいては全部を。わかってほしいという話。

 ふんわりした印象だけで芯に触れずに終わらせるか、小難しい言葉で誤魔化すか、順を追って事実を話すか(もちろん、自分に都合の悪い部分は適度に省略しつつ、であるが)。わかって欲しいという怪物のような欲望に対してどう処理するかを思案している。自分が標準偏差から離れていくにしたがって、怪物は猛る。

 わかってほしい気持ちには形がないことが多い。言葉にしようとしても、少しずつ気持ちからはぐれていく。ブログは読み手を意識する。相談は聴き手を意識する。僕は自分が何をわかってほしいのかいつも見失う。結果噛みついたり吠えたりするだけで、わかってくれる何かとは出会えない。

相談:

 相談といえど、アドバイスを求めているわけではない。ただ聴いてほしいだけのことも多いが、それはどちらかといえば女性的な感性だ(ジェンダー論はお呼びでない)。わかってほしい気持ちを垂れ流すよりも、特定の誰かに聞いて貰えたほうが、よほど自分を正しく肯定できる、とかそんなことはわかりきっていて、でもできないのは世界とそんな関わり方しかしてこなかったから、と結論付けている。他人は装置。

 怖いと感じるのは、たとえば相手がいる場合に、風説の流布・もしくはそのように捉えられる危険性。悪口のようなもので、僕は相談と称してナチュラルに、ニュートラルに他人を貶める手口を好んで使う。が、それらはたいていすべて見透かされていて、自身の株を落とすだけだとようやく気がついた。ので、原則として誰かに他人についての相談をしないことにした。

 そもそも、信用に足る人間などそれこそ阿久津くらいなもので(固有名詞を出してしまった)、それ以外のほとんどの人間は相談することによって得られるモノ(安堵感等含めて)は支払ったものに釣り合わない。情報は資産だというなら尚更である。リスクヘッジ。沈黙は金。

 そんなことを考えているからか、誰かの相談相手として選ばれることは非常に稀である。情報セキュリティとモラルの低さはお墨付きだ。建設的なアドバイスなどできるはずもなし、それでいいと思う。

 (※相談もできない人間は勝手に自家中毒起こして死ぬだけ、対人スキルには他人を信用できるかも含まれているから、だそうです。)

 吹聴:

 (たとえば、SNSで)陳腐なポエジーでなんとなくセンチメントを演出してわかりあえた気分になれたのは大学2年生までだった。意外なことに、ホモには他人の哀愁だとか後悔だとかに寛容な人間は少なかった。むしろ斜に構えた人々にとっての嘲笑の的になったことの方が多いように思う。そのくせ、素朴なイラストに一行詩を載せた様な画像を共有することが好きで、ああ、結局はクオリティの問題なのか。僕が至らないだけなのだな。表現者にはなれない。表現も対人スキルのうちの一つなのだろうか。

 もしくは僕のような、わかってほしいという漠然とした欲望の陳腐さに人は嫌悪感を抱くのかもしれない。だからある人は攻撃的な言葉で武装して、ある人は知性で感情を排してただ事実として述べ、ある人は自身の経験を丁寧に言葉にしていくのかもしれない。たくさんの人間にわかってほしい気持ちを肯定されたらどんな気分だろう。怪物は消えてくれるだろうか。

恋人:

 以前の僕、恋愛にもう少し夢とか理想とか持っていた頃の僕なら、恋人に”わかり手”としての役割を求めただろう。なんだわかり手て。けれど残念なことに恋人がいるはずの今の僕は、(恋人には)しばらく何も話したくないと感じている。僕にとっての聴き手はカウンセラーだけでいいとさえ思い始めた。そんな気持ちはとてもさびしい。

 恋愛について人に相談しない。なぜって、自分が一番正しいからに決まっている。こと恋愛においては自分以外の人間の言葉は全て無意味だからである。先人たちの知恵も悉く価値を持たない。そこには過去の経験すら不要で、現在の自分の感知することだけが事実なのだ。独善的になれないのなら責任をとろうという気概もない。片想いならなおさらで、自分の内に留めておけない気持ちが聴き手を求める。危険な欲求だ。どのような結果を招いたとしても、自分以外の人間は責任をとってくれない。適当な言葉で気持ちを濁されるくらいなら、自分の中で変質させた方がいくらかマシだと思っている。

 誰かを好きなきもちは壊れモノだし、汚れやすい。ので、誰かに触られるのがこわい。

本当:

 人に言われた言葉がどうもうまく呑み込めずに引っかかって残っていても、僕はその言葉にどんな反応を返したのか覚えていない。記憶が自分の都合のいいように徐々に入れ替わっていくのもそのせいだと思う。被害者的な意識は常にあるけれど、実際に僕がただ傷つけられただけである場面は少ない。今度傷つけられたら殴ってやろうとずっと考えていた。そう思っていると案外、優しかった。それでも怯えて過ごす時間のほうが長いので、なるべく距離を置こうと思った。

 わかってもらえなくて悲しいのは、僕がわかってほしいと思っているからだ、と、はたと気がついた。それは愛でもないのに恋でもないのに、ああ、これは欲だ。満たされない欲でいつか傷つくことも同時に知った。

 僕を切り捨てた彼が盲目的な全肯定をもとめるのは、愛着の形成に問題があるんだろうなとか思うだけで、自分が手を差し伸べようだなんて少しも思わない。僕は彼の母親ではない。ともいえ、母親になりたいわけではないのだろうけど。もう同情もしなくていいと思えば、少し気楽でさえある。本当はずっと怖かったんだろうな。こんな風に切り捨てられるのが。

 

 わかってほしいんだろうな、とおもう。でももう、わかってあげない。