才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

□恩知らず

 それにしても、僕はどうしてこうも簡単に感謝の気持ちを失くしてしまえるのでしょうか。っつーのはある程度他人からの目線を意識した建前の自己批判でしかなくて、本心を言ってしまえばその時々、場面場面での僕自身の考えがあるからんなのたりめーだ。「ありがとう」も「愛してるよ」も「死んでくれ」も一過性でしかないのだ。好きなうちに好きって言っておこうって思っただけなのにそれは軽薄さ以外の何物でもなかった。けれど、そこまで見抜いた人間をちゃんめの以外に知らない。(そう考えるとやはりめのくるまはすごい)あれだけ優しくしてやったのに、世話してやったのに、と、大抵の人間は僕のことを「恩知らず」と呼ぶ。だけどさ、そんな恩着せがましいこと言っちゃって大丈夫なの?あつかましいよお前ら。

 まあ、それでも僕だって後悔で眠れないような夜がある。一夜のことだけどね。ごめんね、ありがとう、あの時は嬉しかったよ、本当なんだ、忘れないでね、また会えたときは笑って話せたらいいな、って、思うこともあるんだよ。

 

□あんなにだいすきだったものが仮想的として目に映るとき

 そもそも、彼ら()が僕に優しかったこと自体が一過性だってことに気づいてないんじゃなかろうか。だってずっと優しい阿久津のことはずっと好きだし、ずっと素敵なたいしょーさんはディズニーおじさんになっても素敵だよ。恋をなくしてもあの子のことは応援してるよ、口に出すとなんか違うもんになっちゃうよね。

 まあでも、優しさを喪う理由もなんとなくわかっちゃいるんだよな。僕がその優しさに甘えすぎて愛想尽かされたり、優しくされて勝手に好きになって欲張って全部なくしたりね、自分勝手な脳ミソは酷くダサいね。尽きぬ優しさを求めているとしたら。

 今、ホモという群体を憎んでみたりしている僕だって、メタ的な視点で見ればそれっぽい社会風刺を振りかざして仮想的とドスコイしてる痛いヤツみたいだ。紆余曲折を経て「ホモキモい」に至ってしまったけれど、2012年には「ホモでいてもいいんだって思えたから、ホモのひとたちと出会えてよかったです」みたいな日記を書いてたんだよな。受け入れてもらえた、てのも、拒絶された、てのも、短絡的かもしれないけど、全部思い込みでしかないんすわ。思い込みと一過性の感情でいつまで生きられるかな。

 主語がデカいと話が見えにくくなるからやめておこうな。でもやっぱホモはアレなやつ多いと思うよ。服に広がるゲボの染み。