才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

□躊躇

 傷つかないために自身を例外化する、慣用句でいうところの棚に上げる。敵対するモノが大きくなるにつれて主語が肥大する。結果、自分VS社会という構図に陥りがちである。自身がマジョリティだとはどうしても思えないが故の被害妄想じみた思考だと思う。特定の誰かと喧嘩するよりいくらかマシかもしれないけれど。わたしは何なんだろうか。類型論、カテゴライズでしか自身を規定できないことが少し怖い。

 傷つきたくない/馬鹿にされたくない/蔑ろにされたくない/識られたくない/否定されたくない/飽きられたくない、怖い。

 わたしはとても小さくなった、臆病者なのはわかっていたけれど、自分が酷く傷ついていることに気がつかないでいた。可哀想だとは思わないけれど、わたしはわたしが想っているよりもずっとチャチで雑魚くて恨みがましい人間だ。正直に言ってしまえば、今、弱っている。参ってしまっている。誰も悪くないんだ。これは誰かが僕という個人めがけて投げた石ではないんだ。でも痛いものは痛い。自分は自由である、逃げれる、選べる、と言い聞かせている、少しだけ楽になる。

 

□申告

 統合失調だとか感情障害だとか人格障害だとか発達障害だとか、自身の欠陥をオープンにすれば、セルフハンディキャッピングをすれば楽になると思っていた、甘かった。それを甘えだと自分で切り捨てなければ、とても人前に出せたものではなかったから、自分のことをダサいと言った。要は自虐的な自分に悲しくなってしまったわけだ。誰もそんなことをしても誉めてくれるはずがないし、大目に見てくれることもなかったわけで、わたしは自分の内臓をさらけ出して、それだけ。人並みにやれない自分が恥ずかしい。恥ずかしいということでまた少し傷ついているのだと思う。ならばどうする、人並みというものを忘れよう、25歳男性の平均月収を/正常な発達を/結婚して家庭を作る幸福像を/週末の飲み会を/積み上げた苦労を、僕が持ちえなかった何もかも。視界にはいれば傷ついてしまうから。ダメな自分をダメだと思ってしまうから。

 

□昂揚

 自分の攻撃性はいつも他人に向かう。他者を傷つけることにはいつだって無頓着なのに、僕はとっても傷ついていました、なんていうのは卑怯なことだと理解しているつもりだ。僕は僕の手綱を握れない、けれど、いつまでもそれではいけない。もう自分の快・不快に他人を巻き込みたくないと過去にも言ったはずで。他人とは必要な最低限のつながり以外は絶ってしまおう、とさえ思うのに、一過性の気持ちでまたラインしてしまう。自身が社会の中にいないのだと思うほど、人恋しさは増すばかり。だからどうか、僕などに傷つけられたりしないでほしい、僕の言葉には重さがないから、気にするほどの価値もないから。笑って忘れてなんて、ああ、そんなの、いくらなんでも身勝手が過ぎる。

 

□宗教

 大学時代の友人女子から着信があった。彼女の話は毎週末、昔の知人から宗教の勧誘の電話がかかってくるというものだった。宗教は怖いものだから、もう電話をとるのはやめなさいと言ったけれど、わたしは宗教の怖さなんて知らない。

 さみしさを理由に、あなたには帰属する(居場所)ゲイコミュニティがあるから羨ましい、と彼女は言ったけど、それこそ、ゲイコミュニティと新興宗教はすこし似ていると思った。わたしはそんなもの信じたくないし、宗教に傾倒するなら神道がイイな、と思った。(仏教系の大学出身だけど)