才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

虚構と幸福

□恋と退屈

先日、雑談の中でふと、恋人が欲しいんですけど、との相談を受けた。どうして、と聞くと周りの友人達に恋人ができて、それがとても幸せそうで、自分もそんな風になれたらな、と言うことだった。なんとも微笑ましい動機である(他意はない)。自身の体験を思い返してみると、これまで周囲に「恋愛によってしあわせでいられる」ことを表現している人間はあまりいなかったように思う。それが悪いとかいいとかではないのだけど、僕は自分が恋愛で幸せになれる人間だと思えない。今までだってそうだった。抱きしめ合えば安心できるし、キスをする前はドキドキした。でも、それははじめましての人でもさほど変わりはしないような気がした。むしろ、身体を重ね合うほどに相手に対する興味のようなものは着実に失せていったようにさえ思う。

「とりあえずセックスすればゲームのシナリオはクリアみたいな、ね。フルコンには程遠いのだけれど」

好きな人がいなかったわけではない。依存先をいくつも確保したがる僕らはいつだって誰かに恋をしていた。けれども、僕はきむらちゅゎんのように一途にはなれなかったし、好きな人には大抵僕よりもよほど条件の良いコイビトがいた。何度か告白したけれど、その度丁重にお断りされたこともあったし、こちらから会おうと声をかけても、返事をくれなくなってしまった人もいた。けれどそれはカタオモイと呼ぶことさえおこがましい様な、言ってしまえば、ただの、おきにいり。造形が美しかったり、こころが愛おしく思えるような、ただの素晴らしさ。素晴らしさとこんな僕自身が適切な関係を築けるとは思えない。だから好きな人とは恋愛関係にはなれないのだ。それでもいいと思ってきたし、それで十分だと思っていた。ただ、今は、

 

□ノンフィクションファンタジー

「シャイニーゲイって本当にいるんですかね」少し前に、こんな僕らが暮らしている国は日本です、みたいな話題が出た頃。さぁ。この世のどこかにはいるだろう、たぶん東京の中野とか、港区とか、わからないけど。「シャイニーゲイってどうやって生活してるんですかね」わからない、ホワイト企業に勤めて、ジムに通って、週末はホームパーティー、春はお花見をして、夏はバーベキュー、秋には旅行、冬にはクリスマスデート……。こんな感じだろうか、偏見まみれでまるで現実的な想像がつかない。でも、それって、幸せ?…………わからない。そも幸せとは極主観的なもので、外野がどうこう言いたがっても、当人たちが本当に幸福であるならそれは揺るがないものではないのか。そもそも、そんな実在するかどうかも怪しい人間たちの幸福なんて。僕が思い描く普通の生活がきっと実在し得ない様に「そんなものはない、そんなものがあるはずないだろう」と言いたい。シャイニーゲイはひとつの幻想なのだと思う。さして美しくもないファンタジーだ。

だけど、夏に何度もSNSで見かけた、バーベキュー、プール、海水浴場、夏フェス、なんかそんなん。楽しそうではある。わかってはいるのだ。アレは演出されたもので、彼らの日常が常にキラキラしているわけではないはずであることを。フレームで切り取られた、綺麗な部分だけ提示されているから輝いて見えるのであって、実際は、毎日は……みたいなことを考えてると病んじゃう。