才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

墓守と永遠

◽︎せめて恋を

 ぬるくなったアイスコーヒーを少し残して、現実、つまりはこの世界と今の自分をあとにした。みたいな気軽さで全部手放してしまえたら、なんてことばかり考えている。このところ、僕はまた、あの気持ちに取り憑かれている。僕の居場所はここじゃない、ここではない。でも、そんなものどこにもない、てのもわかっていて、じゃあどうしたらいいの、って壁と会話しながら音速を超えるスピードで射出された豆腐の角が頭に命中するのを待っている。全部空想、絵空事

 

◽︎シがふたりをわかつまで

 身体というのは、一生出られない部屋のようなものだよ、といつか誰かが言っていた。思い出すと、途端に息がつまる。ここでしか生きられないというのは、絶望するのに充分なだとおもう。部屋と同じように、箱だともおもう。僕という意識はこの箱の中に収納されて、死ぬまで、この身体が機能を止めて、灰になるまで、ここから出ることはない。僕はこの箱のことがあまり好きではない。なりはヒトのカタチをしてはいるが、おおよそ、ヒトの域には到達していない。不出来な箱だ。

 今おもえば、静岡に来て付き合ったあの人には、箱の中身のことを少しも話さないままだった気がする。僕の箱には欠陥があって、感情がグラグラ揺れ動いてひとときも休まることはない、体調を崩すと現実的なものごとの解釈が困難になる、ごく主観的な視点でしか事象の理解ができない、そんな風にこの箱がダメなことを話した。けれど。寛容であることと興味がないことの間には途方もない隔たりがあるね。きっと彼はなにもわかろうとはしなかった、僕もわかってもらおうとなんてしなかった。

 自分の欠損に自覚的なヒトモドキたちはみんな、欠損をすべて見透かされてしまうことを恐れる傾向にあるってさ。表面上は不都合のないように、あるいは、人恋しさから、もしかしたら、自尊心から、社交的に振る舞おうとする。けれど、本質や根幹にある欠損を見抜かれることを恐れて、自分から離れようとする。だから、健常者たちは困惑する。

 きっと僕は別れを経てなお、彼にわかってもらおうとしなかった自分にそれらしい註釈を付したいだけなのだ。

 

◽︎非国民的アイドル

 6月22日、新宿二丁目で行われたアスパラベーコンナイトへ行った。ちやほやされるために。少しでもちやほやされてこのチャチな自尊心を少しでも満たすために。まあ、わかってたことですけど、一般参加者がちやほやなんてされるわけないんですよね。でも明け方のショータイムでだいすきなどんどこくんが、チップも渡せなかったのに、僕の方をむいて、両手をギュ〜〜ってしてくれたので、全てはどうでもよくなってしまいました、一晩で覚めるような魔法だったけれど、それでもあの瞬間、あの笑顔は僕だけのものだった。推しがかわいく生きている今日がどんな魔法より尊くて素晴らしいな〜〜。

 前乗りして行った金曜のベアキャンで6人に掘られたけど、そんな肉魔法より、どんどこくんの笑顔がずっと特別だとおもうの。めっかわ、だよ。

 

◽︎Q

愛されるような、誰かになりたかっただけ。