才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

憐憫と断絶

◽︎いつまでも変われないのに終わりはあるんだね

 デニーズに来ないとブログが書けない病気になってしまった。今日は林檎のパフェ(キャラメル林檎のザ・サンデー)を食べながらこの記事を書いている。図書館でも自室でも、なぜだか落ち着かない。自室でも落ち着かないというのは、いや、どうなんだろう、本当は、本当なら、自分の部屋を楽園にしたかった、マイルーム・マイステージ。泉まくらのアルバムのタイトルだ。このところよく聴いている、フォロワに教えられたから。泉まくら、といえば、ぶたきのちゃんの家に泊まりに行ったときに「眠る前には泉まくらを聴かないと眠れない」と言っていたことをぼんやり思い出す、そして幾人かのわからなかったひとたちのことを、想う。けれどそれらはいつだって本題ではない。ていうか本題なんてない、自分を、言いたかったことも、大抵はすぐに忘れて、見失う。目先の感情と主観による独善で生きている。生きている、言葉にすると不思議だ、死は救済だと思うこともだいぶ減った。生きている、たぶん、もうしばらくは。

 

◽︎コミュニティを捨てよ、そして生活へ

 DUBPOPNITEに行かなかった、あの夜、あんなに素敵な夜はもうこないと思っていて、楽しみ方がわからなくなっていたので。今日は大森靖子ナイトがあるらしいけれど、情報を得るのが遅かったので行けない、悔しい。

 twitterのゲイアカウントを消したり、また作ったりを繰り返しているうちに、人間関係がブツブツと切れた、もとより、インターネットの人脈みたいなものを信じられなくなっていたこともあり、敢えて繋ごうとはしなかった。それでも出会い系アプリは続けていて、なんなんだろ、とも思う。ゲイでいたい自分と、もうそんなもの(ゲイコミュニティ)に関わりたくない自分とがいて、今はわりとどうでもいい。エモか性欲しかない、と、たしか少し前に言っていた気もするけど、今は暇潰しと性欲が殆どを占めている。エモについてはもっと素敵な空想を知った。精神疾患を認めない多様性さんたちのなかでクソおもしろくない道化ごっこをするよりも、それぞれ違う息苦しさとおんなじさびしさをもったひとりぼっちの群れの中でボヤボヤ意味のない女子大生ごっこをする方がよほど気分がいいんだもの。東京へ焦がれることも次第に少なくなり、今はのっぺりとへばりつくやるせなさをどう取り繕って茶化そうか思案している。

 

◽︎わかってくれるひとにしかつたわらないじゃないですか、わかってくれないひとにわかってもらおうと期待するのも変な話だし

 僕が今通っている就労移行支援事業所にひとりゲイがいる。仲良くはない。彼は自身が障害者向け福祉サービスを利用していることに対してあまりに自覚がない、と感じるほど、所謂「意識が高い」振る舞いを見せている。発言と行動が伴っていないので、滑稽に映る。彼のtwitterはフォロワーが多く、ツイッターアイドルのつもりでいるようだ。あまり視界に入れたくない。自己肯定感が死んでいるのに自己愛と自尊心が肥え太ったバケモノみたいだ。かまってちゃんかつ察してちゃんなのでとてもダサい。あなたが私たちを軽く見ている以上にわたしもあなたを軽蔑していますよって言いたい。出会い系アプリでは先制ブロックされているのだけれど、ツメが甘いのでtwitterのアカウントは筒抜けである。ときどきアホほど病むのでそこだけは面白い、コンテンツとして。あと目が死んでる。

 

◽︎ツラちゃんの『愛だの恋だのでしあわせになれる(だけの人間性がまだ残っている)か?!』チャレンジ

 どんどこさまはかみさまで、ぴちゅんはごしゅじんで、そめたんは推しカプで、たいちゃんはかわいこちゃん。もうそれくらいの希望、すきなひと、残ってる恋もどき。トニちゃんはいつだってわかってくれるマイフレンドで、きむらちゅゎんはどんなにまちがっていてもずっと絶対で、もうあとのひとはどこかで元気でやってくれてたらいい。かつての恋人たちには未練はないけど、たまにふと恨み言を言いたくなるときがある。バカにしてきたヤツらは全然今でもブチ殺したい。(でもすぐ忘れる)通り過ぎていった人々も、それに纏わるエピソードも、グッチャグチャの感情も、なんだったんだろう。だけど、みんなどっかで息していてよ。そんで僕のことをもし思い出すことがあれば、苦い顔をあなたがしてないといい。

 これからの日々が、毎日が、花咲くみたいに彩られて、いつかくる終わりのそのときも、大きな花束が胸にありますように。愛しているよ、赤の他人なままのマイフレンド。

 ※これは祈りです、不安しかない、これからのための

 

◽︎Youth

 もう若くはないのだろうけど、懐かしく思うような若さは僕にはなかった。経験できなかった。これは17才が人生のピークだと思っていた20才の自分とおんなじ感傷だとおもう。後悔はしていない、反省は生来できない性分だ。生活が続いていく、身体が老けてゆく。残せるものなどなにもない、どうにか自分を正当化したくて足掻いていたことも、ちゃんと覚えている。何者にもなれなかったけれど、なんの価値もない人生だったけれど、生きている、生きているが続く。