才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

夏至

□2015年6月21日の日記

 今年もちゃんと6月21日がきて、やっぱり「今日はあの日か……」「ご冥福をお祈りします」「今日はアイツに会いに行きます」なんてツイートするひとはいるもんだって確認して、それで全部。勝手にやってろただお前らのそれ全部オナニーだからなっておもいつつやっぱり死人が羨ましいし自分は今日も死ねやしないし別に死にたくもないし人間なんてどうせ死んじゃうんだもんなとか思いながらけどどうせ死ぬなら早い方がいいなとボケ老人を見て想う日々。年金は払いたくないしバイトも仕事もしたくないけどどうせどこにいても死にたくなるんだったらもはや東京にもそれ以外にもなんの価値もないしア~~プリキュアになりて~~~なんてクソ無意味な現実逃避を繰り返すだけ、こんなの死んでるのとそう変わらないような気もするしかといって死ぬようなロマンチックもセンチメントもどこにもなくてただ田圃の世話をする老人を窓から見てるだけ。彼らのことなんて最初から嫌いだったって言ってるじゃんでも関係ないからどうでもいいです。僕がシンガーソングライターだったら芦花公園の歌を作ってた絶対性格悪い?ホモは相変わらず自意識過剰で歪んだ人間ばかりでチョ~~面白いです、ブーメランとか百も承知だし。すてきな歌を聴く、面白い漫画を読む、そんな瞬間のためだけに生きてみたいけどかといってそんなのもうどこにも残ってない、選択肢として僕が選べるのはみっともないものばかりで夢も理想もかなわないから重荷になるだけで自分は特別みたいなそんなゴミみたいなプライドは今すぐ捨てろ。可愛い自分にエサをやりたいんだったら精神障碍者ぶるのは辞めなきゃ顔面がどうとかじゃなく僕は僕が一番かわいい友達より恋人より両親より妹より僕は僕が一番かわいいのに社会にとってはただの使い道のない歯車だからいらなくなったら次のゴミの日に捨てられてしまいます今日が夏至ならもうすぐ6月が終わって大嫌いな季節がきますまた季節がかわってゆきます言い訳以外の努力をできないで生きてこうなんてあまいよ鬱はあまえ鬱はあまえUTSUHAAMAEだからもうちょっと頑張りなさいよじゃあ死んでしまおうかしかしそこにはなんのドラマチックもセンチメントも残ってはいないのでした。こんなのは望んでいなかった、はい、おしまい

 

□2016年6月16日の日記

また6月がきたよ。2016年の6月を生きてるよ。みんな生きてるよ。たぶん変わらずに生きてるよ。僕は君のことなんてこれっぽっちも知らないけれど、聞きたいことがたくさんあるよ。そっちの様子はどうだい?そこからは何が見えているの?
なんて、こんなの、なんの足しにもならないノスタルジィだってわかってる。それでも餌がないと飢えて死ぬ。ごめんなさい。
死ぬことについて考えれば、相変わらず。わたしは死にたいんだ、多分。死にたいと思ってしまうよ。どうしたって。今の生活の中ではつまらないことしか起こらない。過去にも未来にも期待できないんだもの。もう本当にどうにかなりそう。あれ、もしかしたら、もうとっくにどうにかなってるのかも?しれないな。だってもうずいぶんと死にたいだとか、つまらないだとか、そんなことしか口に出していないような気がするもの。ねえ、きみはつまらないということは死んでしまうに足る理由だとおもう?

3文節以上の文章を考えると疲れる。身体は変わらず重く、心はどうもうまくいかない。世界観を上からROM焼きしてくれるような恋がしたい。そうじゃなくてももっとまともに。まともに、なりたかった。まともに、恋だってしてみたかった。すきなひとストックが意味を為さなくなってきた。すきでいても意味がないから。救ってくれないから。救って、救ってほしい。救ってほしいよ。んあああああああああ。

こんな気持ちを抱えたままあとどのくらいここでこんなことがしていられるだろう。いつまでもこんなところでこんなことをしていたいわけじゃない。どうも家に金がないらしい。どうもわたしのせいらしい。そんなはずはない、スケープゴートにされている気がする。ニートひとり養って精神科へ通わせることが共働きの両親にとってどれほど負担になっているのか。死ぬほどどうでもいい。

 

□2014年6月1日の日記

六月になると思いだすことがあるんです。
京王線芦花公園駅で飛び込み自殺をしたホモの方のこと。
うん、たしか六月のことでした。

僕とその人は面識がありません。どんな人だったのかも知りません。ただ、その人の知人らや、無関係の有象無象達がこぞって騒ぎ立てているのを見ていただけです。
その日、僕は人が死んだというのに、流れ続けるタイムラインを見ながら(なんてドラマチックなんだろう)などと不謹慎なことを考えていました。愚かな僕は、今でもその人に憧れることがあります。顔も名前も知らない死んだホモのことを、まだ羨んでいるのです。
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いつか死ぬことだけは平等だという慰めの言葉がありますが、なら、死は平等でしょうか。
僕もあれから何度か本気で死ぬことを考えたりしましたが、どうしてもそんな風になれなくて、変わらず生きています。最近ではもう、大して死にたくもなくなっちゃったりして、未来のことなんか考えちゃったりして、ダサくなったな、って感じです。

あくまで僕の恣意的な解釈ですが、「彼」は成功しました。それはまるで映画のように。あの日は鮮烈でした。人生の最期を劇的に装飾する、という意味において、「彼」はこのうえなく成功したと僕は捉えています。不謹慎でしょうか。僕は、あんな風には、きっとなれないから。

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/*僕が死んだら、誰か泣いてくれるかな。*/

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死は私たちに単純に美しさを与えてくれるわけではありませんでした。死にゆくときにさえ、人間には失敗と成功があるのだということを私はまざまざと見せつけられました。成功か失敗で言えば、僕は失敗し続けているのです。失敗して、だらだらと醜態を晒し続けています。でも。たとえだらしなくてダサい日々だとしても、今生きている僕は幸せなのでしょう。だって、この人生は映画にも漫画にもなれないんだから。たとえスーサイドという行為が自分の全てと引き換えに一度だけ使える魔法だとしても、僕はクソダサくて、なんのドラマチックさもない人生を生きていきたいと願うようになりました。これでいいんですよね?どうか、いつかの自分に、それでいいと言ってほしい。

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そう考えると、やっぱり、「死にたい」と「死んだ」の間にはとてつもなく大きな隔たりがあるんですよね。
私たちが十代の頃に恋い焦がれた死とは、いったいなんだったのか。僕にとってはそれがドラマチックであり、現状からの逃避であったように、彼女にとっては耽美の象徴であり、今のあの子にとってはそれが自分に対する唯一の救いに見えているわけで。けど実際死なんてありふれてるしつまんないよなんて言う僕もいて。
今の僕が死の中に見ているものは、不変性・永遠・安定です。人は死んだらどうなるんでしょうね。芦花公園駅の「彼」は今どこにいるのでしょう。こうやって僕ら残された人間は自分たちの好きなように悼んだり、懐かしんだりするわけですが、それはある意味蹂躪に近い行為のように感じます。僕のこれは、批評という、なかでも最低なそれです。けど、届かない。彼はもうここにはいないのだから、どんな言葉も届かないのではないでしょうか。
そうなってしまうと、もう誰も彼を傷つけることはできないし、イライラさせることもないわけです。傷つかないことは羨ましいけれど、羨んではいけないことなのでしょうね。
人が死ぬということは、悲しいことなのだから。
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すげえ陳腐でなんの重みもないことをいいますけど、人生にはたぶん正解も間違いもなくて、スーサイドがひとつの選択としてあったときにそれを選ぶということは賞賛に値するほどの勇敢な行為かもしれません。勇敢?違うわ、きっとそれしか選べなかったのでしょう。それがどれほど悲しいことか、どれほど苦しいことか。よくがんばったねって、だけどそんなふうには頑張らなくてもよかったんだよって。

けど僕は今まで死ねずに生きてきて、死ぬこと以外をいつも選ぶことが許されていて。今もそれなりにやっているのですから、たぶん僕にとってはこれでいいのでしょう。と、いうよりも、人が自分以外の誰かになれない以上、今までの自分の選択がどうあれ、これでよかったと言い聞かせて生きていくしかないのではないかと思います。
たとえば、もしも今が幸せだったら、過去もぜんぶ今こここの瞬間までに至る過程だったとして受け止められるんですかね。そこまで幸福を感じられることがこれから先の人生で僕に起こりうるのか甚だ疑問ですが、なにかを期待して息を続けようと思いました。生きててよかったって、いつか言いたい絶対言いたい(深夜高速みたいですね)

 

□2017年6月21日の日記

 芦花公園駅で自ら命を絶ったある同性愛者の青年について、わたしは毎年こんな風に彼の死をレイプし続けている。会ったこともない、もう会えない、ここにいない彼に対して。彼はわたしにとって、どうしようもないほど死の象徴だから。

 今年は、ただ祈ろうと思います。どうか安らかに、