才能ない脳

かわいい自分を演出するためだったのにいつのまにやらゲボの掃き溜め

窓の向こうでは骨が揺れてる

 ブログを放置しすぎてしまった。元屋敷しもべ妖精が実家に帰ったあとのことを下書きに入れたままでいたが、その時の感情も論理も今の自分ではよくわからないものになってしまったのでもう今後公開されることはないでしょう。第一部 完。

 twitterのしすぎで本当に長文が書けなくなってしまった。以前も同じようなことを30回くらい言っていた気がする(誇張ではなく)のでいよいよ真実味が増してきた。ただブログを書かないことでメリットもあって、ひとつは自分自身のおわりっぷりを見つめる回数が、時間が、確実に減ったということ。もうひとつは言葉で固定してしまった惨めさや苦しさを何度も反復しなくて済んだ、ということ。これは浸っている、という快感を得る娯楽でもあるのだけど。

 生活の中から他人がいなくなった、フォロワーも、なんだかおもしろAIみたい。もう言葉を伝えたい相手がトニちゃんくらいしかいないことに気づいてからは「LINEでよくね?」になってしまった。愛しているよ、トニちゃん。(トニちゃんと書いてマイフレンドと読む)

 わたしあなたがどんな人間か知らない、って感じの人のこと、いちいちヒスる理由にもならないよ。でもすきフォロワーのことはちゃんとAIじゃねんだなっておもう瞬間がたびたびあって、ふとしたときに生活があって、住むところがあって、愛する人がいたりいなかったりして、ァ…人間なんだなっておもってお脳さんが軋む(処理能力が低いので)。

 

 限界異常独身男性同性愛者ツラちゃん(29)といえば順調に終わっています。ええ、安心のおわりっぷりです。今年度で父親が定年なので次の夏にはあんなに嫌悪していた生活保護受給者とかになってそう。昔ほど嫌じゃなくなったのが尚更おわりみ。

 なんか前にも書いた気がするんですけどセンシティブだからと言って特別優れているわけじゃなくて、繊細さや過敏さはなにか(勿論、群衆総員にとって、ではなくていいんですけど)他人にとって有益なカタチでアウトプットされてはじめて価値を得ると思うんですよね。本人にとって生きづらさに繋がるとしたら、過敏さは害でしかないでつよね~~って自分の脆さをダサいと嗤うことしかできず。だから僕は表現者になりたかった。何者か、なんて他者依存の承認なんて本当は要らなかったのに、そんなことにさえ気が付かないほどからっぽな自分しかいないんですもの。あーあ。

 精神科医にすっかり「ただのわがままな健常者」として扱われるようになって、もう薬出してくれるならそれでいいやって思ってますけど、それなら1回の受診で半日潰れるあの待ち時間どうにかしてほしい。

 未来のこと考えるとゆっくり頭が痛くなって、重くなって、布団をかぶるしかなくなる。そうしてられるうちはそうやって逃げてたらいいよ、いつかfatel for meがくるときまで。でも布団かぶってたら気づけないかもね。

 

 これも前に書いたことと重複するかもしれないし、もしかしたら矛盾するかもしれないけど、世界を閉じて、わたしとあなた(大抵トニちゃん)のルールの中で生きていると、同性愛者の権利とか暮らしやすい社会をとかゲイとしてしあわせになるための方略とかどんどんどうでもよくなってくるし、今はあんまりいいこと言えないと思う。かといって率先して他人の粗探しして叩くほどの興味もあんましなくて、よく言えばこれがぼくのしあわせの限界高。

 カミングアウトうんぬんの話、ホモは好きだよね。でも自分が世界の、万人にとっての主人公だと思っているうちはしない方がいいと思う。稚拙が過ぎる。

 死ぬときはみんなひとりだということにまだ救われています。もうすぐ30歳、もうすぐ無敵の人、いつか怪物になって人の世に仇を為すかもしれません。そのときも、花束が胸にあった日々を思い出せますように。ネオ・祈り。

 ァ……これ、ドライフラ……

 

 ぼく自身について考えるとこんな風にバチクソバッドエンドしか思いつかないわけなのですが、ブログを書いていない期間はもっとふんわり逃避できていました。なんならフィクションや他者の創作物に対して、自身を重ねることなく、もう少し純粋に楽しめていたように思います。興味ないことに対しても自覚的に無視できていたというか。

 たとえばラブソングみたいなの、この歌私のことうた……ってないじゃん!!!!!怒!!!!!みたいのからは解放されてましたね。

 結局こういうゲボみたいな自慰でしか文章書けないんだなっておもうと、浅さと薄さにゲンナリしまちゅわ。意識的に自己憐憫に浸りたくなったらまたなんか書くと思います、しばしお付き合いくださいましね。